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『安吾探偵控』自作ガイド

『安吾探偵控』自作ガイド


 最近読んだある長編ミステリで、京都市伏見区を南北に流れている疎水のインクラインに死体が浮いている、という場面が冒頭に出てきた。あのあたりにはわりと土地鑑が残っていて、本筋とはべつに、感慨深いものがあった。
 『安吾探偵帖』を書き始めたとき、当然、わが主人公安吾氏も、そのあたりを足繁く往き来していたのだろうと見当をつけていた。ここでいう主人公とはもちろん、文学史上のビッグ・ネームではなく、我がささやかなフィクションのなかの人物のことだ。
 実在の坂口安吾がそのあたりより約二キロ北の、伏見稲荷に一年ちょっと下宿していたことは、判明している。その毎日はというと、酒と囲碁とバラの日々だったことくらいしかわかっていない。日録にあたるようなものも残っていないので、結局、不明のパーツが大部分だ。作家が日記をつけるような几帳面な人でなかったことが幸いして、フィクションのつけいる余地があったわけだ。
 といって、わたしが鮮明に憶えているのは、師団街道も消防署があるあたりまでで、そこから北へ上がったことはあまりない。もう少しいけば、名神高速の下をくぐるわけで、何となくそこが国境の関門のような気がしていた。さらに北上すれば、新幹線があって、そこより南部はすでに絶対的な「辺境」だった。南北問題――。これはわたし個人の感覚ではなく、高校のときの教師から嘆きのように聞かされていた怨念みたいなものだ。曰く「新幹線より南は京都にあらず」と。人外境である。とにかく、今の言葉でいう偏差値が無茶苦茶に低かった。アホばっかり。「北へのぼらねば、人間あつかいしてもらえん」と少年は信じた。
 安吾が伏見にいたという事実を知ったのは、七〇年代の半ばごろ。個人的には、『吹雪物語』から始まった安吾耽溺の第一期にあたる。何しろ、あの規格はずれの悪作を、それが京都伏見で書かれたという理由のみで、有り難がっていたのだ。その頃、よくつるんで飲み歩いた沖縄出身の男がいて、国粋主義者なのには閉口したが、安吾の話題でだけはまったく誤差がなかった。
 ただし、稲荷にある安吾のかつての下宿先を訪ねてみようとは、その時はつゆほども考えなかった。まさか、数十年後に、安吾京都ミステリを書くことになるとは予想もしない。まあ、予想などついていたとしたら、気味が悪いだろうが。
 作品のなかで、安吾と助手の鉄管小僧が中書島の遊郭に行くところがあるが、伏見稲荷から歩けば往復はけっこうな距離になる。当時の尺度でいえば、片道一里以上だ。主要舞台になる造り酒屋が丹波橋のあたりという設定だったので、そこから下がると自然と中書島に着くわけだ。べつに、あの辺ばかりよく憶えていた結果として、そういうロケーションになったのではない。
 『安吾探偵帖』シリーズは、最初から三作のつもりで、腹案もだいたい決まっていた。書きながら構想が大幅にふくらんでいくといったことは起こらず、そこは作者として物足らないところだ。後続を期待する声もあったが、材料としてはいちおうさらえてしまっている。そこをさらえ返すのが創作の奥義ではあるが……。今のところ奇蹟が起こるきざしは、少なくとも主観的には、ない。
 予測外だったのは、構想から執筆にかかるまでのあいだに、奇病で倒れてしまったことだ。生還はできたものの、おかげで、脳内に巣食っていたさまざまな妄想的創作プランがほとんど蒸発してしまっていた。これにはいささか焦った。リハビリは効いても再現は無理。そもそも奇病の要因はその妄想にあったのかもしれず、もういちど「発病」する以外に「再現」の方法はないようだった。
 はなはだ薄暗い自己確認ではあった。けれども、まったくのゼロになったわけではなく、備蓄はいくらか残されていた。それがまあ、『安吾探偵帖』の三作分だった。かろうじて三作だけでもリブートできたのは、せめてもの幸運だった。
 では、なぜこの三作分の構想のみ救えたのか? 時折り頭を悩ます疑問ではあるが、なるべく考えないことにしている。

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