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更新日記2004.02.01

更新日記2004.02.01

ストラウブ&キングの新作『ブラック・ハウス』を 読んでいたら、その衛星監視カメラ的ナラティヴにぶち当たってびっくりした。「われらの主人公に会いにいこうではないか」的な十九世紀小説風のスタイルは ご愛敬。「われら」とはもちろん合作者の二人のこと。物語の遥か高みに立って全能の視点からタクトを振る。それはまあそれとして、冒頭、ウィスコンシン州 の田舎町を上空二千フィートから見下ろす語り始めは、明らかに映像化を前提にした商魂たくましいイントロだ。


そこからカメラアイはぐんぐんと焦点を絞って田舎町の住人を一人ひとり紹介していくことになる。このあたりはキングおなじみのミニマリズムに移行していくわけだが、やはりスタートの鳥瞰図的視点の取り方が気になった。
ヘリコプターによる移動空撮よりも明らかに高所だ。航空機なのか。いやいやもっと高所にあるという感じなのだ。ヘリコプターによる移動空中撮影シーンというと、どうしてもキューブリック映画の『シャイニング』(キング的世界と似て非なる『シャイニング』)のタイトル・ロールを思い出してしまうが、キューブリックはそのフィルムの大部分を未使用のまま捨て、それが『ブレードランナー』のラストに再利用されることになり(この話にはさらに、このラストの部分をリドリー・スコットがディレクターズ・カット版を編集したさいにばっさりけずって作品全体を台無しにしてしまったというおまけがつく)という具合に、あくまで移動に力点がある。


『ブラック・ハウス』の場合は、視点は定点観測のものだ。
移動はあくまでゆるやか、焦点を絞ってから、確たる目的意識をもって行なわれる。それは作者たちによって定点監視の文体と自覚されているのではないかと 思わせる。カメラアイは固定。固定場所は天空よりももう少し地上に近いところ。――衛星監視カメラだ。アウトフォーカスもクローズショットも自在に調節が きく。
たとえば第一章で、老人施設の理事長室に監視システムは潜りこむ。理事長と若い秘書が真昼の情事におよぼうとするところで、《われらは気を利かしてこの 場を退散し》と、シーンは切り換わることになる。必要ならば個人のプライバシーをほじり出すことなど造作ないというわけだ。
十九世紀小説的視点の至便性はずいぶんと長持ちしている。衛星監視カメラの視点はそれと似ているようでもっと限りなく非人間的なものだ。――と考えるよりも、あるいは、別の、逆転した観点をとったほうがいいのか。
つまり。
トルストイ『戦争と平和』を書いた技法を参考にして、二十世紀の映像監視システムというテクノロジーは開発された、と。0201d

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