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チャー坊遺稿集

チャー坊遺稿集

「村八分が、再結成しよるらしぃで」「ほうか」
述語は「再結成した」だったり、「ライヴを観てきた」だったり、いくつかのヴァリエーションがあったが、おおよそそんな会話を何度も旧知の者とかわした記憶がある。それがいつだったか――八十年代の全般に散らばっていたという他、はっきりしない。ただ憶えているのは、村八分の固有名詞が出るあとさきに、必ずだれそれが死んだという類いの消息が伴われていたこと。
七十年代の半ば、不定期に京大西部講堂の構内や敷地内や周辺をうろうろしていた体験をわたしは持つが、そのころ知り合っただれからもムラハチやチャー坊の話を耳にしたことはない。かえってずっと後、京都を離れてから、風の便りみたいに、彼らの活動の噂を聞くことになった。わたしの持っているCDは『ライブ村八分』の一枚きりで、結果的に、こればかり聴いている。《日曜日の、朝早く、御所の中で、ゆめうつつ》などというフレーズの、活字で読むだけだと京都人特有のやにさがったお公家さん感覚が、いったんチャー坊のヴォーカルを通して発されるや、たちまち異次元からの雄叫びのごとき(第一、何を言っているのか聞き取れない)オーラを放つ。わたしらの見慣れた、アングラの特権的肉体が発露されてくる瞬間。
七二年の一月九日のMOJO WEST。現われた村八分は一曲目を演りかけたところでマイクを蹴倒して、帰ってしまった(この日収録された「世界革命戦争宣言」を含む頭脳警察のライヴ版は発売禁止)。この日の記憶はずいぶん薄れながらも、やはり忘れようがない。ズノウもムラハチもわたしが見物しにいった眼前でマボロシと化したのだ。登場したときからすでに、彼らは見え隠れするトリックスターのような存在だった。この遺稿集プラスCDの音盤のほうは、九十年代の「晩年」の作品が収められている。登場して二十年余。彼らの活動は、駆け抜けていったと評するには無理があるだろう。だがその一貫性は間違いない。成長もせず、拡大も深化も成熟もせず、かといって変質もせず、現実世界にたいする異化として、自らの肉体を、言葉を、精神を、突き出し、捧げつづけたのだ。

ロック画報11 2003.3

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