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6分の6で一人格

6分の6で一人格

迂闊にも最近、気付いたことであるが、我が家の電話番号の末尾は6696なのだった。これほどペンネームにふさわしい番号のめぐりあわせもなかった、と始めて気が付いた。前兆はあったのである。あるパーティーでクロークに荷物をあずけたところ番号札が63だった。カブではないか。単純に六助のカブというペンネームであったかと愕然と気付いた。何かをかついだのでもない。区画でうらなったのでもない。ただ漫然となんとなくつけてしまった野崎印である。まさか一生ついてまわることになろうとは想わなかった。助六寿司の詰合せパックというのはどこにでもあって、もともとそんなに好みでもなかったから、もう頑なに口にしなくなった。どうしたってわたしのアイデンティティを逆さ向きにおっ立てられたようで……食べる気がなくなるのだ。
前兆はもう一つあったのだが、これはかなり話がまわりくどいので少しハショることにする。銀行にいって待ちカードを手にすると666とあったのだ。それにしたってロクでもないと、ただ待ち時間表示だけが気になっていた。なぜ銀行の、それも窓口に並んだかというと、キャッシュ・カード紛失の届け出にいったのだ。いくらわたしが迂闊な人間でも、電話番号を暗証番号にはしていないから安心しているべきなのだが、万が一、拾った奴が6696の幸運を一発で呼び出してしまうなんてことがないとも限らない。ずいぶん心配したのだった。じつは、そうです、わたしのカードの暗証番号は6696のサカサマなのである。
なぜ、こんな心配をしたかというと、最近読んだ本に『ロクロク荘の殺人』(タイトルはこの通りでありません、失礼)というのがあって六月六日の午前六時六分六秒に、東京と神戸で双子が同時に殺されるアイデアだったからだ。ロクロク読みもしないで、これはわたしに対するイヤミかと考え込んでしまったものだ。幸い読んでみると面白く、六助とは関係なく安心したのだった。とはいえ、こうした偶然は重なりうるものだとやはり、落としたキャッシュ・カードの命運については、夜も眠れないものがあったのである。
カードの紛失に続いて、大変な失策をしてしまった。いや、失策はまだ継続しているのである。原稿の枚数の見込み違いで、書いても書いても終わらない。所定枚数の三倍になっても四倍になっても終わらない。当然、締め切りはとうにすぎている。それいそんなにふくれあがった超過原稿が掲載できるはずもない。と、わかっているのだが、とにかく終わらせてみなければならない、と悲壮な決意でもって完成に近づいているのが今――。0102a 0102c0102b
最近は、六〇枚ものに凝っているので、件の原稿も六〇枚に収める予定だった。むかしは六枚のコラムでもって修行を積んだようなところがある。六枚というと雑誌の見開きの分量だ。初めてのころは、枚数が先に決まっていて、それに身の丈を合わせて書かねばならないという作業にずいぶん面喰ったものである。だが定期的に書いていると慣れるものだ。頭の中で計算して書いていけば、行数までぴったりと合うようになった。内容の問題というより、小手先でうまくまとめてしまうコツがわかったのだ。で、コラムはコラムだが、六の十倍、六〇枚ものも何となく計測できるようになってきていたのだ。
それが――パンクしたのである。
書き出して気が付いたのだが、一行一行の伸び率を全然計算できない。一行書いてどの程度いいえたか、次にどう展開するか、計算がきかないのだ。これは気のすむまで書きまくって後から計算するというやり方に切り変える他ない。注文原稿の書き方ではなく、書き下ろし単行本の方法だ。どうやらそれでやらなければ、途中で投げ出すしかない。こんな大失策に頭をかかえているところ。
テーマは「小松川事件」、べつに新説を出すのではない。李珍宇が無実であると言う説は二冊出ているから、それに付け加えることはない。改めて事件の全貌を考え直し、無実の人間を死刑にしてしまった歴史を問い直したい、というところ。これが書いても書いても終わらない。膨大なのではなく、単にこちらの計測ミスだ。この上は六〇の六倍、三六〇枚なら収まると考えているのだが――。
体重は六〇キロ、睡眠時間は六時間、極めて健康であるが、こうも大失策が起こると、リズムも狂ってきてしまう。
ウイスキーはショット・グラスに六杯、ロックならキューヴ・アイス六個で。家族は六人。ダニエル・キイスの描く24人格者には敗けるが、人格は六重……。ああ、何をわけのわからないことを書いておるのだ、わたしは。

日本推理作家協会会報 92.10

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