更新日記2003.11.15
三原弟平『ベンヤミンと女たち』(青土社)を読む。ベンヤミンの生涯については、大方のことを知っていたつもりでまだ未知の部分があったようだ。
ベンヤミン一九三二年の自殺未遂、ドーラとの離婚にまつわるひどく無様な事実の拾遺など。あのたぐいまれなアフォリズムの影に、興ざめでありふれた醜態があったことを知ると、それなりに納得し安心した。
彼はそのすべての散文作品において「自分自身を供物にさしだすこと」に失敗したのだ。それがボードレールとの決定的な違いだと著者はいう。たしかにそれ はそのとおりだろう。二流の詩人、二流の哲学者。たぶん二十世紀最高の文芸批評家の一人という客観評価はこれからも不動だと思われるが、それは批評という ジャンルにおいてのみの「一流性」だ。他の点については――安吾が愛惜をこめて語ったような「二流の人」であった。
こうした人物が、人生の抽象的レベルで傑出している当然の結果として、日常的にはとんでもない愚昧の人だったことは間違いない。愚昧の痕跡を求めて『ベ ンヤミンと女たち』を読むことは不純だろうけれど、もはや不純な興味しか自分のなかに残っていないことに気づいた。ベンヤミン思想の点検というテーマに は、もうあまり魅かれることはないのだろう。
P・J・パリッシュ『死のように静かな冬』を読む。八〇年代を舞台に描くのもひとつの有効な選択かもしれないと思った。それだけ七〇年代は太古の時代に後退していく、ますます。
『フィアー・ドット・コム』を観た。見る者を必ず自殺させる必殺の「自殺系サイト」というアイデアはなかなかなんだが……。「……」の部分は書かないほうがいいか。
タランティーノの『キルビル』は七〇年代東映B級のオタク映画だ。七〇年代前期の二本立て興行のフロク番組にオマージュを捧げた。ソニー千葉や真田広之のカンフー映画、杉本美樹のスケ番もの、などなど。しかし梶芽衣子は『修羅雪姫』じゃなくて『銀蝶渡り鳥』の ほうがよろしい。けれど、少なくとも「ジェイソンvsフレディ」なんていう自家中毒みたいな自己引用的リメイクよりも、よほど健康だ。『フィアー・ドッ ト・コム』のホラー・オタクのアホさかげんとタランティーノのそれは、基本的に同一レベルではあるんだろう。それにしても、あの「歴史」の断片がハリウッ ド映画経由で復活してくるとは、つくづく夢のような悪夢のような幻覚めいた正夢のような悪夢めいた幻覚のような――現在。
要するに、二流の時代、二番煎じばかりが永劫回帰するしかない、生きるに値しない時代だ。
それがいつごろから始まったかといえば、八〇年代が起点だった、のだろう。
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