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更新日記2003.04.15

更新日記2003.04.15

マイクル・クライトン『プレイ―獲物―』を読んでいたら、暴走するナノテク・モンスターの進化ぶりが、P・K・ディック「変種第二号」の展開とあまりに似ているのでびっくりした。クライトンは50年代SFの名作をひそかに参考にしたのかもしれない。現代の作者はナノテクノロジーの現状をふまえて警告を発しているのだが、人間の手になる兵器が自己増殖する行程を、ディックは純然たる悪夢的想像力の所産として描いた。

 おそらく、二十一世紀中のいつか、自己欺瞞に満ちたヒトの無謀さは、発達しゆく技術力と衝突するだろう。その衝突は、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、コンピュータ・テクノロジー、この三分野において起こると思われる。そこには、自己複製する存在を環境中に解き放ちうるという共通項があるからだ。
ここ何年かのうちに、人類の暮らしには、そういった自己複製する存在の一番手が定着した。コンピュータ・ウイルスである。さらに、バイオテクノロジーにおいても、いろいろな問題が現実のものとなりつつある。最近の報告によれば、メキシコに自生するトウモロコシのなかには、遺伝子操作作物法で禁じられ、操作された遺伝子の混入を防ぐさまざまな努力がなされているにもかかわらず、人為的に改変された遺伝子を持つ個体が出現しはじめているという。このできごとは、ヒトがみずからの技術をコントロールする長く困難な旅の、おそらくは最初の試練にすぎない。バイオテクノロジーが絶対に安全であるとする長年の思いこみは――この見方は、一九七〇年代からこちら、大多数の生物学者が喧伝してきたものだが――着実に崩れつつある。二〇〇一年、オーストラリアの研究者たちが意図せずして創りだした凶悪な致死性のウイルスは、古くからの理由なき思いこみに一石を投じた。もはやバイオテクノロジーに対しては、これまでのように楽観的な態度で臨めないことは明らかだろう。
ナノテクノロジーは、三つのなかでもっとも新しく、ある意味でもっともラディカルな技術といえる。簡単にいえば、ナノテクノロジーとは極微小(ナノ)サイズの機械を造る技術だ。単位は100ナノメートル――つまり、1000万分の1メートル。人間の髪の毛の太さとくらべても、これはわずか1000分の1という小ささでしかない。専門家らは、これらの極微小マシンは、超小型コンピュータの部品から新方式の癌治療、新型兵器にいたるまで、さまざまな用途に用いられるだろうと予想している。
『プレイ―獲物―』上 酒井昭伸訳 早川書房 7P~8P

 

 戦争やテロリズムのみならず、テクノロジーの進化も、今日の世界にとっては危機を助長させる函数だ。野間宏は晩年、言語構造学と遺伝子工学の横断性に着目し、「新しい危機の時代の文学」の課題を提起した。その構想は発展をみていないが、少なくともテーマの緊急性はさらに深まり、鋭いものとなっている。
二十世紀は巨大な失意の時代だった。失意の総体は、われわれが未来についていだいた希望の、身のほど知らずな総量につりあっていたことだろう。
あらかじめ失意から始まってきたこの世紀は、われわれの予測をはたしてどのように裏切っていくのか。

さながら暗い水を飲むように、わたしは濁った大気を飲む。
時が鋤ですき返されると、薔薇は大地として在った。
ゆるやかな渦巻のなかの重くて、優しい薔薇の花々よ、
薔薇の重さと優しさを貴女は二重の花輪に編んだのだ!

オシップ・マンデリシュターム『悲しみの歌』1920より
早川真理訳 『石』 群像社2003.1

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