第十三回 十一月十二日 外来検診へ
退院して自宅へ。
自宅療養は最低で二週間はみたほうがいいと言われていた。
この回で報告は終わるが、療養期間は病院に増して退屈で、かつ書くことがない。午前中はずっと体調が悪かった、とか愚痴みたいなものしか出てこない。外来に行く日を一つの区切りに考えていたので、この日のことを書いて病状記も打ち止めにしよう。
八時半すぎの中央線、九時すぎの山手線、ともに予想したより混んでいない。山手線は座れたほど。
病院は待ち時間のほうが多かった。第三内科の担当医は人気医師のH先生。月曜日でもあることからたいへんな盛況だ。図書館で糖尿病関係の本を借り出してきたとき、この先生の著書(というか、監修本)もあったので、単純に「売れっ子医師」にあたったのも幸運かと思った。ところが……である。
十分ごとに予約している患者の一覧がドアのところに貼りだしてある。じっさいはそこに予約なしの患者を適宜入れていく。二、三分で検診終わりの患者もいる。とにかく半端な混雑ではない。十分に一交替というと散髪のQBチェーンみたいだが、こっちは身体の検査なのだ。髪の毛の比ではない。持ち時間の少なさのせわしないことといったら……。
それに万事スピーディに能率的に運ぼうとする先生のペースに背中を押される。のんびりとあれこれ質問などしていられるムードではない。どうですか―はい、順調です―それは結構、では次回の予約は……。と、こんな調子なのだ。困ったのは、問診もなしに、血糖低下剤オイグルコン二週間分の調合が出されたこと。その後に、血糖値を測ってきなさいという指示。逆じゃないかと思うんだが。血糖値測定がごくかんたんに済むことくらい知っている。「ここ」で出来ないほど忙しいのだったら、待ち時間に測定してくれたら良かったのに、と不満が出そうになる。
とにかく検査室を一分で追い立てられ、これまた忙しそうな看護婦さんを捕まえて血糖値を測ってもらう。数値は78。えらく低い。入院中は低いことで喜んでいたが、退院してからはそれが不安の要素になった。しかも、血糖値を測るのは二週間ぶりだ。食事療法、運動療法と、教科書に書いてあることはクソ真面目に実行した。加えて低下剤も毎朝飲んでいた。血糖低下は一つの目標だったわけだ。それが、いつも午前中から昼前にくる不快な疲労感を体感してみると、下げすぎではないかと不安になっていたのだ。その不安は低い数値によって適中したともいえる。(その不安を訴える前に、すでに血糖低下剤は二週間分出てしまっている)。低すぎるんじゃないかと看護婦さんに質問すると、看護婦さんもあれやこれやと忙しそうで、「そういうことは先生が説明されます」と、にべもない返事。それ以上言えなくなる。
それからもういちど検診室にもどって、先生に同じ質問をすると、「自宅で血糖測定をしたほうがいいね」という答え。どうやら先生の思考は三手先くらいに向かっているらしい。わたしにはとてもついていけなかった。――これで血糖測定器を貸してもらえることになったから、贅沢をいってはいけないかもしれないが、質問には答えてもらっていない。血糖値が気になって仕方がないという不安症状に対して「それなら自分で数値を測ってコントロールを考えなさい」という処方だろうか。だとしても、これはいろいろと考えた結果の推測だ。三歩先の結論だけズバリと言われても戸惑いのほうが多かった。しかし先生にとっては、それくらい先に行っていないと雲霞のように群がる患者をさばききれないのだろう。
それはそれ。なんといっても血糖測定器である。これは、この日の最大の収穫だ。
バイエル薬品のデキスターZ�i。
それを貸与するための書類をつくりながら、先生は、器具に関する一般的な説明をしてくれる。――これはインシュリンをうっている患者には優先的に貸与されるが、それ以外の者には保険もきかず、わりと高価な自費購入になることなど。……いやその早いこと。この器具のことはすでに何度となく聞いていたのでアウトラインは理解していた。初めて聞いたとしたらついていけなかったかもしれない。じっさいわたしは購入させられるものと勘違いしながら(財布に入っている持ち金の心配もあって)聞いていたのだ。
あとはどこでどんな検査をしてもらい、どんな指示をあおぐか、についての説明があった。これも早すぎて取り残されそうになる。大きく分ければ三点――。B1階で採血、採尿をする。内科で測定器の使い方を教えてもらう(これは入院中、毎日やられていたことなので大体わかっている)。同じ一階のホームケア相談室でレクチャーしてもらうこと。
先生はスピード記録に挑戦するかのようにてきぱきと説明を済ましていく。こちらの咀嚼能力にまでは気を遣ってくれない。そりゃそうだろ。言葉が一区切りしたところで、この機を逃してはならじと、さきほど外された低血糖の不安についての質問を試みる。すると「それはホームケア相談室で聞きなさい」と言われた。医師が答える価値のある質問ではないというニュアンスもあって、「ごめんなさい」の卑屈な気分に落ちこむ。あるいは、自分の言うことをよく聞いていなかったのかという叱責も……。
次の外来予約を入れてもらって(もう来なくてけっこうと言ってほしかったのだが)すごすごと退散する。十分以上かかったかもしれない。
三点のうち、いちばん忘れそうなところから始める。ホームケア相談室。ここも列をつくっていたらどうしようかと思ったが、結果的には、ゆったりと話しこんでしまった。つまり相談室はヒマだったんだ。ところが、しゃべっているうちに疲労感が募ってくる。いつもの午前中のだるさより少しきついような感じもする。退院してから最も遠いところ(自宅からバス電車バスの乗り継ぎで一時間半)に出てきたのに加えて、病院の待合室という悪い環境に何時間も身をおいている。さっきの78という数値も気になる。低血糖状態が進んでいるのではないのか。
保健婦さんにそのことを訴える。――自分の感じとしては、血糖低下剤が効きすぎているのだ。もう投薬はいらないのではないか(これが肝心の質問だ)と尋ねる。しかしそれは「先生の判断で」とかわされる。親切に応対はしてくれるが、必要な答えは与えてくれないわけだ。結局、最高に必要としている答えは、看護婦―医師―保健婦と「たらい回し」にされたことになる。医師はわたしの症状を聞くより先に、低下剤をむこう二週間分、処方してしまった。これが「先生の判断」なら、わたしはつづく二週間も血糖の下がりすぎを気にかけてびくびくして暮らさないといけない。
いろいろと質問の角度を変えてみるが、低下剤は今の段階で必要という結論は動かせない。そこにもどるしかないのだ。だんだん苛ついてきた。一般論としてはそうだろう。ここで聞けるのは、一般論以上のものではないとわかった。一般論なら本を読んだってわかります。よりいっそう疲労感が強くなる。(低下剤の件は、次の次の日、神経内科の外来に来たときかんたんに解決した。こちらの症状を説明し、その結果、オイグルコンを半分にしてもらい、三日後にはゼロにしてもらったのだ。)
確信はなかったけれど、これは低血糖の症状だと思えた。保健婦さんにそれを伝える。昼食前にはいつもこんな症状になるけれど、それがいちだんとひどいようだ。「砂糖をなめてみますか」と言われたから、一も二もなく「そうします」とお願いした。この際だ、なめた後の症状の変化を病院で体験しておくのもいいと思った。時刻はほぼ正午だった。砂糖の効果はといえば――小康を得たという感じだった。食事をすれば状態はよくなるだろうと言われた。だが、まだまだ病院から解放されない。
次に、測定器の使い方を教えてもらう。ついでに血糖値をもういちど測ると63。また下がっている。
地下で採血、採尿を済ませる。
それから、もうひとつ番外が入った。投薬の残りの分量でとんでもない勘違いをして神経内科に行った。予約もなく、時間外で先生をつかまえるのにだいぶ待たされた。あまりの勘違い(後でわかった)に、後遺症だと思われないか心配になった。
しかしそのおかげで得がたい収穫もあったのだ。
S医師との再会である。大げさにいえば、わたしの「命の恩人」だ。
再会といっても、こちらは憶えていないので、事実上の初対面となる。
わたしが駿河台病院にかつぎこまれて一泊した深夜、日付が変わってからS先生は板橋病院から出向いてきた。十二時からだ。
初めての患者がわたし。
S医師は、抗ウイルス剤の投与を確かめて、即断する。――この患者は自分のいる板橋病院で看るのが最適であろう、と。
ここでわたしの運命、というか強運は定まったのだ。もしこの先生がこの日に駿河台に出張してきていなかったら……。という運命論に傾くのも無理はない。
しかも、である。
お会いして話していたら、もっと驚くような偶然も確かめられた。S医師が駿河台病院に出向くシフトになったのは、十月からのこと。それも火曜日が始め。――つまり先生がかの病院に勤務についたのは、十月二日の深夜が最初だったのだ。そこにたまたま転がっていた(駿河台では手に負えなかっただろう)患者がわたし。「火曜日には、なぜか厄介な患者さんが多いんですよね」と先生はこともなげにおっしゃっていた。
ここに僥倖を感じるのはごく自然かもしれない。そう、べつに信心深くなるわけじゃなし、いいか。
とにかく「もう一つの人生」の扉は、そんなふうに開けられたということ。
話がそちらに向いたところで、この報告も閉じるときがきたようだ。
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