ミッシング・ナンバーの中から
ミステリマガジン2020.9 ハヤカワ文庫創刊50周年
NVの1番のタイトルは憶えていない。このエッセイは考証のためのものではないから、憶えていないままとする。11番の『料理人』は、何度も買い替えたようだ。人に吹聴してまわったからその結果、誰かが持ちだして「還らない」本となる。後で買った一九七九年の四刷は大切にしている。
NV9、10番は、リチャード・ライトの『アメリカの息子』上下、黒人文学全集の文庫化だ。ナンバーの古いものには、それなりの「思い出」が栞のように挟まれている。
いや、そんな綺麗事じゃなくーー日やけ染みのような紋様が刻まれている。どれもこれも半世紀以上の昔噺だ。
白い背表紙ではNFもあって、7番がアーヴィング・ストーンの『馬に乗った水夫』。
これは、ジャック・ロンドンの評伝。傑作だ。一九七七年の刊。
時期を同じくして、HMもスタートした。1番が何だったか憶えていないのは、通しナンバーがついてなかった所為でもあるか。ポケミスが文庫版にリニューアルされることを、素直に喜べなかったのだろう。HPBは「本」だけれど、仕分け用の分類番号を大きく背表紙に飾った文庫本はただの「商品」だ、などと。
ミステリは読み捨ての消耗品ではないと意気がりたくても、文庫本では恰好がつかない……。こうした感慨は、七〇年代に端を発する文化的変容のうらぶれた精神的風景かもしれない。
そんなわけで、いつごろ手に入れて、また手放したか、まったく記憶に残らない(内容のほうもほとんど蒸発しきってしまう)本と大量につき合う日々に流されるままになった。
だが、忘却の塵埃の中から一冊を選んで昔噺のタネにするのも悪くない時間つぶしかもしれない。ーーその一冊とは、ボアロー/ナルスジャック『死者の中から』日影丈吉訳、一九七七年六月刊〈HM31-2〉。べつだん奇をてらった珍書ではなく、知名度の高い作品だ。
原作が一九五三年、HPBの翻訳が五六年十月、五八年にヒッチコックによる映画化『めまい』、七七年文庫化(少し改訳された)、二〇〇〇年にタイトル『めまい』の新訳ーーというのが作品の履歴だ。映画化のほうは名作あつかいで広く流通しているが、この三種の刊本は現在どれも入手困難のようだ。わたしは持っていない。高名なわりに、映画化作品の輝きの蔭にかすんでしまった作品のような印象がある。
根幹のハナシは、◎◎トリック。フランスものらしく少ない登場人物の配置で、手堅く語られる。こうしたスタイリッシュな技法を、わたしはひそかに「フランス式ねじ式」と呼んでいるが、説明は面倒なのでここでは省く。要するに、今日のスレっ枯らしの読者には物足りず、充分な賞味にまでは深まらない作風なのだ。いきおい、原作ではなく、映画化作品のほうを主体に記憶にとどめるといった「読み方」が一般的となる。わたしもその列にいた。しかし、わたしに関していうと、この映画は困ったことに「二度と観たくない」作品の上位に位置している。問題は、あの鮮烈なオープニングだ。
めまいが怖い。とにかく怖い。あるいは、わたしは、ごく私的な事情によって、この映画を部分的に歪曲したうえで憶えているのかもしれないが、ともかく。
それに加えて、高所恐怖症だ。この話のトリックは、主人公の持つ病症(ある意味での障害)である目眩と高所恐怖症とを利用している。この二つはーーわたしを苦しめる宿痾でもあった。慢性的なめまいについては、どこかに書いたおぼえもある。これは、三〇代から四〇代に最盛期があり、最近は、手ひどく襲撃されることはなくなっている。高所恐怖症は、身体ごと麻痺状態になる窮地におちいる体験を何度か通過したけれど、日常的に悩まされることはない。しかし、飛行物体に乗る場面を含む3D映画などは、注意して観ないようにしている。
こうしたハンデをかかえる者が『めまい』を愉しむことが出来ないどころか生理的な拒絶感をおぼえ、『死者の中から』のメイントリックにも、ラストの慟哭にもまったく共感できないことは、けだし当然なのだろう。作品の欠陥ではない。ましてや、背表紙に通しナンバーがないからでもないーー。
年代的に、わたしは、HPBからHM文庫への移行に、違和感をいだきながら流されていった読者層に属している。そのことは、周期的に体験する「蔵書の大整理」といった個人的事業のさいにも明瞭に自覚させられる。残っている本がHPBを経由せずにHMオリジナルで刊行されたもので多く占められていたりすると、独りそれなりに納得するわけだ。
ーーその一例が、黄色背表紙の、A・アップルフィールドのボナパルド警視シリーズだ。しかし……。三冊あるはずのシリーズ、書棚に背を見せているのは、二冊きりだった。いくら眼をこらして見ても二冊は二冊。
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