更新日記2014.07.20
Victer Serge のメキシコ時代を考察するために、是非とも再読しようと思っていたマルカム・ラウリー『火山の下』をぼちぼち読みはじめる。さいわい新訳が数年前に出ていた。
ジョン・ヒューストンによる映画化『火山のもとで』も観ているんだが、初読の印象はごくごくはかない。メキシコを舞台にした、アル中の小説としか憶えておらんのだ。
再読。一章は、二人の酔いどれがもっと度外れた酔いどれ(これが主人公)のウワサ話をするシーン。ベケットとの同時代性……。てなことよりも、メキシコの場末の映画館で『オルラックの手』が上映されている。この〈引喩〉の周到さに、ガツンとやられた。ピーター・ローレ主演の『狂恋』である。
そういうわけで、本はいったん閉じ、映画作品を捜すことにした。『The Hand of Orlac』1924年版の表現主義映画(ロベルト・ヴィーネ監督、コンラート・ファイト主演)のフルムーヴィーは、ユーチューブで発見。ローレ主演の1935年版も、某検索サイトからゲットした。
これらを鑑賞してから『火山の下』にもどろうか。
2014.07.22
『火山の下』には、どうも感動できなかった。メキシコという舞台いがいには――。火山小説としてなら迫真的だ。
小説中で『狂恋』は、さんざんに批難されているのだけれど、主人公の朦朧とした未練よりも、ピーター・ローレのストーカー愛の一途さのほうが結晶度が高いのではないか。ラウリーの作品では、さまざまな脚注が、「中央アメリカに彷徨いこんだ西欧人の試練」という、たいして面白くもないパターンを少しも出ていないような気がする。
ラストもどこか借り物めいている。コンラッド的テーマが見えかけてきたところ(西欧人はすべてスパイ!)で、カフカを剽窃したみたいな一行をもって閉じてしまう。
ラウリーの主人公「領事」は、酔っぱらいとしても不徹底なのだ。どこまでも狂っているローレのゴーゴル博士におよばない。
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