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更新日記2014.08.26

更新日記2014.08.26

インパクション196号(休刊マイナス1号)「象徴天皇制批判の視座」
 予告休刊にあと1号とせまってしまった。厭なカウントダウンだ。
 巻頭の、岡真理「ガザのジェノサイド」から読みはじめ、あらためて、この雑誌、この言論が果たしてきた役割を想う。それを欠落として(ほどなく消滅してしまうことへの想像力として)感受せざるを得ないことが苦しい。毒にも薬にもならないおれのセンチメンタリズム。
 次に、特集を読みすすめる。杉村昌昭と天野恵一の対談。すべて、おおまかその通りだ。だが、何かが違う。「だが」が巨大で、「違う」の内実は巨大さにつりあって、曖昧模糊としている。決定的に違う、という意識に一行ごとに襲われる。
 何か燭光が見えてきそうで見えない。言葉も探り当てられない。そのことに苛立つ。彼らの篤実な運動と論理にたいして苛立つのではない。おれ自身の蒙昧さにたいしてだ。
 他の論考に移動したが、収穫はない。「情報」は溜まるが、要するに、それだけのこと。正しいだけのメッセージ。ゴミのようなものも混じっているが。いや、八つ当たりは禁物。
 最後の一本、菅孝行「21世紀の天皇制批判 衰亡する日本資本主義とともに」に打たれた。久方ぶりに、この筆者の文体に強く共鳴させられた。長いながい21世紀の始まりという提言に苦しみをもって同意する。
 ――ここまで社会がグローバルに劣化してくると「大衆運動」もまた最底辺からのエネルギーをくみあげて決起してこざるをえない。かなり意訳したが、このあたりが菅の結論か。これはレトリックではない。崖っぷちの現状認識だ。そして、弱者こそ決起するという保証など、どこにもないのだ。
 このペシミズムは、巻頭言の二、太田昌国「ペルシャ湾岸の掃海艇派遣(1991)から集団的自衛権容認(2014)への道」に表われた深い(そして、疲弊しきったといってもいい)ペシミズムと呼応している。太田のこの文章の原型になるものには、ウェブサイトで接していた。なぜわれわれはかくも圧倒的な「少数派」になってしまったのか? 首相官邸前の抗議行動の後に記された報告文に濃密に流れる疲労感(行動を共にしたかのように、それを分かち与えられた)は、読んだおれのなかからしばらく消え去らなかった。

 アベ・マフィアの面々(エテ公面の副総理や危険ドラッグ中毒の目付きをした幹事長もふくめて)は、そのうち消えてなくなるだろう。しかし、「戦争容認」へと滑りだしている国民の政治意識に歯止めがかかるとは思えない。アメリカの傭兵部隊を派遣する突破口として集団自衛権行使という術語が発明された。国民の「多数」は、戦後70年続いた平和よりも、美名に隠れた戦争を「待望」しているのかもしれない。

 おれは二人のペシミズムへの共感をここに書くだけだ。
 そう、ペシミストでないマルキストなんて、この世界に必要だろうか。

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