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更新日誌2009.07.15 通夜から帰る途

更新日誌2009.07.15 通夜から帰る途

 平岡正明さんの通夜に横浜まで行ってきた。
 まさかという想いも強かったのだが、この種のことは、順を追うのがふつうだから、これで仕方がないのかもしれない。
 供養のつもりでもなく、電車のなかでは、Dolphy&Trane の My Favorite Things を聴いていた。休日なので、横浜から東海道線に乗って戸塚まで乗り過ごしてしまい、あわてて保土ヶ谷にもどる。駅を降りて出口を間違えたわけでもないのに、自転車置き場の脇を抜けると、車の往来の激しい大通りに出ていた。
 舗道には、「おい、タクシー乗り場がないぞ」などと騒がしい一団がいる。服装からして、同じ式場に向かう人たちらしい。と思ってよく見ると、数ヶ月ぶりに会う岡庭昇さんらであった。立ち話していると、駅方面から伊達政保さんが歩いてくる。ともかくも、タクシーに分乗して目的地に急いだ。
 先日、ドラゴンも故人となり、これで爆弾三教祖とも三馬鹿とも称されたアジテーターは、みな鬼籍に入ったことになる。そのなかでも、平岡は、六〇年代思想の顕現者として一貫し、もっとも長く立場を堅持したといえる。四十数年、第一線に立っていたのだ。太田の支離滅裂、竹中の私怨などとはまったく異質で、本質は陽根と狂騒にあった。六〇年代ブンド主義の正系、エンターテインメントとしての革命論者だ。
 初期の著作にたいしては、もっぱら愛読者として接していたのだろう。『あらゆる犯罪は革命的である』など、内容は今では頭に残っていないが、ある種の気分とスタイルは確実に注入された。書庫の隅には、まだなお数冊が保存されているようだ。
 中期の著作になると、こちらの受容条件がもう少し入り組んできて、自分が将来なにかを書くとしてもこの人の敷いたレールに便乗する結果になるほかないのだろうか、という瞑い予感がつねにつきまとうようになった。その意味で、『歌の情勢はすばらしい』など、余人にはとても到達できない高地だと、ため息をつかされた。
 中期のなかば、自分の著書が出るようになって、やはりというのか、かなり近接する領域に重なってきたと感慨した。これは、ごく個人的なセンチメントにすぎないけれど。本人にもあいまみえ、第一作をはじめ幾作かは強力な援護をしていただく光栄にも浴した。心配したのはエピゴーネンあつかいされることだったが、『復員文学論』のスタイルへの見当外れの評価がひとつあった他は耳にしていない。あの当時、平井玄などは平岡批判が必要だと力説していたが、わたしにはその興味はなかった。

 『官能武装論』の書評を書く機会があり、(このホームページにもアップしてある)、だいたいそこに、自分としての位置づけは確定していると思う。原理的には、ここから動かないようだ。詳細に論じるのなら、いくらでも引き延ばせるが、その機会もなく、小文がただ、ひとつの文献として残った。
 ――日付をみれば、もう、二十年も過ぎた。
 このような異能の思想家が大手を振って闊歩していなければ、自分の選ぶ領域ももっと別のところに見つけたかもしれない……。と、繰り言ついでに。
 告別にあたって、式場で流れていたビリー・ホリディの「アイ・カヴァー・ザ・ウォーター・フロント」のことなど、もっと別のことを書くつもりだったけれど、うまく捕まえられなかった。
 帰りの電車では、梁石日さん、福原圭一さんといっしょだった。

 某日。
 グーグル・プラネットによる由々しき野蛮な文化侵略について、某機関と懇談の機会を持つ。
 黒船襲来   とい素朴な感想からあまり進まないのが辛い。
 世間一般の反応も著作者の反応も弱々しく鈍い。もっぱら「係争事」としてのみ、不正確に報道するマスコミの姿勢も問題だ。コンセンサス作りからという段階か。それでは間に合わないだろうな、と感じる。
 また某日。
 大泉黒石の『黄夫人の手』、某図書館から、修理中であるのを無理やり借りてくる。中とじのハリがすっかり錆びてぼろぼろに崩れた状態。紙も古いが、古紙独特の臭気を放つほかは、まだしっかりしている。だが、ページをひらけるとそのままバラバラになりそうな頼りなさだ。
 グーグル・スキャンの書物強姦〈レイプ〉をこうむった後のすがたを見るようで、無惨だった。
 

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