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更新日誌2008.11.15

更新日誌2008.11.15

 このところ、観ているのは、旧作のマカロニ・ウェスタンばかり。
 それが、おおかた、初めて観るもの。
 とにかく全盛期だった頃には、嫌っていたから。時代にまつわる懐かしさというものは、まったくない。なせ今どきになって〈学習〉しだしたかというと……。話が長くなるので、またべつの機会にでも。……いや、とくに語るほどの仔細はなかったりして。
 きっかけの一つは、セルジオ・コルブッチの『殺しが静かにやって来る』
 これには、ぶったまげた。
 こないだ観た新作の、ピアース・ブロスナン、リーアム・ニーセンの『セラフィム・フォールズ』が雪原西部劇だったが、それは前半だけで、後半は荒地に移動する。こちらは、屋内シーン以外はもう、全篇、雪、雪、雪。白いキャンパスにぶちまけられる虐殺の血のりも毒々しい。この〈様式美〉。静謐な銀世界に銃声と血潮と。イーストマン・カラーのせいなのか、特殊効果のせいなのか、妙に透明度のある朱色の血なのだ。
 ジャン・ルイ・トランティニアンもクラウス・キンスキーもそこそこ。けれど、主役はスターではない。
 吹雪舞う白い荒野にぽつんと現われる馬上のガンマン。待ち伏せ。手練の抜き撃ちはモーゼル・マシン・ピストル。またたく間に三人を倒し、怖れをなして投降した最後の一人の右手を撃ち抜く。助からないと知った相手が孔のあいた手で拳銃をかまえるのをゆっくりと見定めて撃ち殺す。灰色の空に不吉な鳥の群れが横切っていく。
 西部劇の常道をきちんと踏まえているようでいて、かなり意識的にそれを外している。雪の広野、フランス人の俳優がドイツ製の拳銃を駆使する。このごった煮の無国籍性。そして無抵抗の敵の掌を撃ち抜くという残酷さ。これは、全篇に漂う暴力と虐殺の無意味性を表わすのみでなく、結末(驚愕のエンディング)の布石にもなっている。
 とりわけラストの大虐殺シーンがそうだが、この映画で描かれる殺戮には理由がない。ただ見せ場として臆面もなく用意されているのみだ。怪優キンスキーには、いかにもおあつらえの場面に見えるにしても。
 共食いするバウンティ・ハンターたちの汚さを描いて、『ワイルドバンチ』に先んじている。
 こうした作品を、同時代にいながら観落としていたのは何故か。考えてみたって仕方がない。あの頃に観ないで正解だった、という気も少なからずある。それを穿っていくと、また長くなるので……。

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