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更新日誌2010.07.20 ボルタンスキーの可能な人生

更新日誌2010.07.20 ボルタンスキーの可能な人生

 『ボルタンスキーの可能な人生』の発刊記念トーク・イベントに行ってきた。本人が、六本木から池袋に移動するさいに交通渋滞にまきこまれたため、開始時間がずれこむ。おかげで、面白い時間の流れに立ち会うことができた。「ボルタンスキーを待ち望む時間」が「ボルタンスキーを探して」に移行しかけたところ、やっと彼が現われたのだ。
 実物は、いたずら小僧がそのままジイサンになったような印象。ビデオ作品『ボルタンスキーを探して』は、二十年前の製作なので、あの頃の中年の面影はない。
 いちばん面白かったのは、タスマニア在住の世界最強のギャンブラーと交わした賭けの話だった。連戦連勝の金持ちが、ボルタンスキーの生涯作品をこれからつくる分も含めて買い取ったのだという。けれど支払いは毎月の分割(ギャンブラーに雇われた月給取りになったようなもんだろ)。それが何年つづくかで、勝敗のラインが決まる。八年をこえれば自分の勝ちだが、五年くらいで自分が死ねば安く身売りした結果になってしまい残念だ。しかし相手は名うての負け知らずだからね……。という一口噺。
 信じるも信じないも勝手か。
 どうやら、この種のジョークがたまらなく好きな人物らしい。
 話にはつづきがあって、作品の買い取りには、アトリエで製作する芸術家をビデオに記録する項目も含まれているという。製作活動をしているとしていないにかかわらず、彼の「余生」はすべて映像記録の対象となっていると理解できる。「死の蒐集家」であるボルタンスキーとしては、自分の死もコレクションに残しておくための、早めの準備に取りかかったというところだろうか。契約期間が長くなるほど「死の床に横たわる」彼が被写体にされる可能性は大きくなるのだから。
 対話集の形をとった自伝『ボルタンスキーの可能な人生』について、トリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー本みたいなものにしたかったなどとおどけていたが、案外これは本音か。
 彼の念頭には、あるいは、ヴィム・ヴェンダースの『ニックス・ムービー ライトニング・オヴァー・ザ・ウォーター』があるのかもしれない。ガンで衰弱死にむかうニコラス・レイの日常をカメラが凝視する稀有の作品。

 ボルタンスキーがさまざまな作品によって呈示する「死のイメージ」に強く惹かれてきた。日仏会館(だったと思う)で「死んだスイス人」の展示を観たのは、一九九〇年あたりだった。その情景と心情とは少し脚色して、小説『煉獄回廊』の前半に使った。死んだ人びとのポートレートを貼りつけたビスケット缶の展示を前にして、主人公は、革命の時代が路傍に捨て去った死者たちの存在を想起する。だが、まどろむ暇もなく、来るべきXデーへの覚悟を決めておけと脅されるのだった。そういったエピソードの背景として利用しただけだったが、くみとるべき意味は尽きないものがあるような気がする。
 次の小説にも、それを生かしたい。

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