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60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に   聞き手・栗原幸夫

60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に   聞き手・栗原幸夫

1 吉田山の青春

栗原 きょうは小説『煉獄回廊』を中心に、野崎さんの60/70年代を語っていただこうとおもいます。『煉獄回廊』は一九六九年から一九八九年という時間の幅のなかで、日置高志と沖孝というドッペルゲンガーの二人の主人公を通じて時代の深層に迫った作品で、笠井潔も「ようやく三十年後に達成された、画期的な全共闘小説」と評価しています。この笠井の批評は、複雑なこの小説のプロットをたいへん要領よく紹介してもいます。野崎さんのホームページに再録されているので、小説をまだ読んでいない人はさしあたりそれをまず見てもらうといいとおもいます。ところで野崎さんはホームページでこの小説について、「今のところわたしが書きえた最高の作品である」と自負していまね。
野崎 いろんなことがごっちゃになってくると思うんですけれど、『煉獄回廊』という小説は一九六九年の自分自身を振り返るというところが一つコアにあります。自分の体験をそのまま振り返ってもしょうがない。あの時代に何があったのか、自分のやったことがあの時代の中でどういう意味を持ったのかというようなことを考えたかった。それがずっと頭の中にあったわけで、一つ荷物を降ろせたことになりますね。
栗原 野崎さんの『北米探偵小説論』のプロローグに「銀閣寺の大学生」という節があって、花田清輝について書いておられますが、一九二九年四月に花田清輝は京都に来て京都大学の専科にはいるわけですね。その時に花田清輝は二〇歳、それからちょうど四〇年後の一九六九年、野崎さんはほぼ二一歳ですか。その当たりから話を伺いたいのですが、まず京都の野崎六助というところから話をうかがいたい。
野崎 実は京都時代の花田はどういう人間だったのかは伝記的事実は全然分からないわけですよね。
栗原 そこが野崎さんと似ていると思って。あの節を読んでいるときに花田清輝にダブッて野崎さんの顔がふっと浮かんでくるような感じだったんですね。それで話の最初に、花田清輝のことを話していただくというよりも京都の一九六九年前後の、つまり二十歳前後のことから話を始めていただきたいということです。花田清輝が分からない以上に野崎六助の六九年以前がよく分からない。
野崎 たまたま花田が下宿していたところは銀閣寺のあたりで、花田の二番目の小説「悲劇について」には吉田山がでてくるんです。吉田山は、吉田神社の方から登る登り方と、銀閣寺の方から登る道など、色々あるわけです。その道のりの情景が自分と重なるところがあった。「悲劇について」は、一つの友情小説、青春小説の一部門として、ある思想を抱いた人間同士の友情の交流が非常に鮮明に出ていると思うんです。友情というより、悲劇に終わるしかない思想のドラマに力点があります。
 ただわたしは最初から花田という表現者を理解できていたわけではないんです。二〇代の頃、未来社の花田清輝著作集七冊をくりかえし読みましたがよくわからない。何遍読んでもわからなかったですね。若いころは、それでも、難解な本ほど好む傾向がありましたから何回も挑戦してそのつどよく理解できないという繰り返しでした。腹におさまったのは、花田が死んだあと講談社から出た一六巻の全集を最初から読んでいってからです。何年にどういう状況でこの人はこういう文章を書いたか、それをいちいち照らし合わせながら読んでいって、やっと花田が理解できたなと思った。その時のいろんな複雑な影響を受けたと思うんですけれど、花田のレトリックというのが自分に移っちゃったわけですね。何を書いても花田的な持って回った言い方。一体何をいっているのか分からないレトリック。三〇過ぎてからやっと花田が理解出来たんですけれど、逆に理解できすぎてレトリックその物に乗り移られてしまった、みたいな体験がありました。
 花田で思い出すのは林達夫なんですね。林達夫の「三木清の思い出」という文章を非常に花田が称揚していて、花田の薦めによって林達夫の有名な反共文書『共産主義的人間』が出たりした。花田の林達夫に対する共感の仕方というのはまた不思議なものがあると思ったんです。私の理解の仕方では吉田山という場所が一つの核になるんですね。林達夫と三木清の友情が書かれるわけですけれども、その一つの舞台が吉田山でそこを散歩しながら、運命の分かれ目がこんなふうにあったという情景が出てくる。それが非常に花田の小説によく似た雰囲気だなと思ったわけです。この林達夫の文章は『回想の三木清』という本が岩波から出ていましたよね。非常に紙質の悪い本で、三木清は牢屋の中で死にましたから、死に方としては抵抗文化人というふうになっている。ただああいう死に方をした人に対して悪いんですけれど、三木清の思想その物というのは本当に戦争に抵抗するものであったのかどうかは厳密に検討していけば疑わしいものがあると思うんですね。昭和研究会に対するコミットにしても極めて両義的なものがあったのではないか。もちろんこれは戦時下の翼賛思想全体の評価と関わる問題ですが、ただ林達夫の三木清の思想の裁断の仕方というのはもう少し単純だったんですね。林達夫の文章でよく思い出すのは「可哀想な三木」という意味合いの情感です。なにが可哀想なのかというのは非常に錯綜した感情がこもっていますが、要するに時局的なコミットメントの仕方がずれていたのではないか、という点に尽きると思うんです。林達夫自身がそういうコミットを一切避けて戦争をくぐり抜けたわけです。《三木の寛宏な温かさと私の狭量な冷たさ》というふうに林は対比しています。
 「可哀想な三木」という言い方と、花田の小説が重なってきます。花田の小説の「悲劇について」では、自分の友達のことを「可哀想な非存在(メエ・オン)」というんですね。簡単にいえば自分のエピゴーネンでしかないとみなす。思想のない男ですね。自分に思想的な影響を受けただけの男。そういう友達を「可哀想な非存在」というわけですけれども、そのような言い方が林達夫の三木清に対する思いにも共通しているのではないかと思ったんですね。
 もう一つ林達夫の言葉で印象的に残っているのは三木清の字というのは右肩下がりの非常に特徴的な字なんです。林は三木の独創に属するものは右肩下がりの字以外には一つも無いと断言しています。西田哲学の弟子として三木哲学という独自なものがあったかというと、それは全部否定しているわけです。哲学者として才能はあったし、思想家としても常に時代の先端にたっていたわけですけれども、その中でオリジナリティのあるものは一つもなかった、そういう裁断をしているわけです。《三木清の純然たる独創は、彼の手をつけたあらゆる分野を通じてこの怪奇な書風ただ一つであった》と林は書いています。わたしの知るかぎり、思想家としての三木をこれほど正確に言い当てた批評は他にありません。
 そういう回路を通して花田が林達夫を評価したのは非常に面白いと思ったんです。花田自身が三木清なんていう存在はものすごく軽蔑していたんじゃないかなと思うんですけれど、そういう友情の構図というのが京都の土地にあったんだなあというのがどうしても私の発想の元になってくるわけです。それで「銀閣寺の大学生」という言い方をしたわけです。僕自身は銀閣寺の周辺に住んだことはないけれど、しょっちゅううろうろしていたんです。そのうろうろしていた時代の気分、大学生ではなかったんですけれど、そういうときの自分とかつての花田の小説世界とか林達夫と三木清の友情の構図というのはなぜか重なってくるのですね。
 もう少し時代は新しくなるのですが、野間宏の『暗い絵』、あれも銀閣寺界隈を描いた一種の友情小説だと思うのですが、あの中では「仕方のない正しさ」という言葉が使われていました。野間さんの『暗い絵』を、銀閣寺のどの道なのかなあと、いちいち思い浮かべながら読もうとしたんですが、必ずしもはっきりしない。そういう目に浮かんだこの通りだなという書き方をされていないというのもあると思うんですが、吉田山から銀閣寺という特有の場所の感覚は濃厚にあります。あそこでしかない。それが自分の中で花田・林・三木・野間というおかしな系譜ですけれど、どうしても自分自身の若い頃を振り返るときにそういった構図が全面的に出てきてしまうんですね。これはやはり花田的韜晦の仕方というふうに映るんでしょうか。
栗原 いや、韜晦というふうには思わなくて、もう少し体験的に、あの場所は『煉獄回廊』の中で一種、特権的なトポスとして描かれていますね。花田・林・三木・野間という系譜と野崎さんとのつながり、あるいは『煉獄回廊』の友情小説としての側面が、いまのお話でとてもよくわかりました。すこし下世話な話になるけど、吉田山にあった白樺なんて飲み屋が出てくるところもありますし。
野崎 ええ、まだありますけど(笑)。取材めいたものをやったとき、吉田山をあっちから登り、こっちから登り、とずいぶん往復したんです。京都にいるころは、東大路から入って吉田神社の正面にくる道しか通った記憶がなかったものですから。そうすると、花田や林が描いている道すじはだいたいわかりました。しかし野間さんのはわからない。野間文学の晦渋さそのままという印象が残りました。
栗原 あれを読んでいると僕はほとんどモデルが分かるんだけれど、そこの話に行く前に、二〇歳前後の野崎さんはあのへんで何をしていたのですか。
野崎 誇るべきようなことはないですが。(笑)うろうろしていたに過ぎないのですよ。
栗原 つまり、分からないということでね、花田清輝の京都時代あるいは銀閣寺時代と非常に似ているというか、ある種の韜晦といいますか、そこの所がとても似ているなと思うんだけれど、そこはあまり今日は話さないという線で行きますか。
野崎 六〇年代というのは別になんにもないんじゃないかと思うんですよ、私個人の体験とかに関しては。別にたいそうにお話しすることはないと思っていたんですよ。小川徹が『花田清輝の生涯』という本を書いています。これは『映画芸術』に連載していたときは『実録・花田清輝の全生涯』となっていましたが、そこにも花田の京都時代というのはほとんど出てきません。何もなかったんじゃないですか。わたしのそのころもそれと同じで何もなかったんですよ。67年の10・8闘争で京大生が一人死んでいわゆる政治の季節が始まりますよね。あのとき二十歳の誕生日前です。あれが一つの衝撃と覚醒をもたらせたというのは、ごく平均的な反応だったと思います。それからデモがあれば出かけて石放るくらいのことはしました。みんなやってましたよ、それくらいのこと。小説が六九年から始まってくるのは少し象徴的な意味もありますが、書き終わってみると、それ以前は語らなくてもいいんだというか、語るに値しないという気持ちにもなります。個人的にあったことの断片はいくつか出てきます。父親の病気のこととか。
栗原 だけどせめて何をやっていたかぐらいは話してくださいよ。大学生じゃないですよね。なぜ大学に行かなかったんですか。
野崎 べつに積極的に忌避していたとかそんな格好のいいことはありません。とくに行きたいとも思わないうちに自然と行かずじまいになってしまった。あとで考えたら行かなくてよかったと思います。いま不思議なことに大学で教えてますが、こんな講師でも学生はいいのかなあとしきりに感じます。
栗原 学生運動や新左翼党派とは一切無関係ですか。どうも検事みたいな質問ですが。
野崎 セクトのつきあいはなかったです。『煉獄回廊』は、わりとセクトがらみのエピソードを配していったので、そこに引っ張られてかなり主人公の精神を暗鬱に縛ってしまったと思えます。エピソードは嘘じゃないけど、フィクションに組みこまれると、勝手に転がったり相互につながって増殖したりするところがありますよね。わたし自身の体験がそれほどセクト政治の近くにあったという事実はないです。ただあとで知り合う同世代の人たちはたいてい「元○○派」という前歴をはっきりと背負っています。赤とか青とか白とか黒とか緑とか、色とりどり。黄色はいねえけど(笑)。ぼくは何色でもなかったから、肩身の狭い思いをすることがあります。臭いだけは発散してるみたいだけど、色はついてなかったんです。
栗原 野崎さんのホームページに「『煉獄回廊』ディレクターズカット」という項目がありまして、そこに『煉獄回廊』のことをこういうふうに書いてあるんです。
「この小説のほとんどの人物にはモデルがいる。全て私の人生に決定的な陰影を刻みつけた者ばかりだ」。事実私なんかも六〇年代の後半から七〇年代にかけて、京都によく行ったし、あそこの人達といろいろ付き合いがあった。あそこに出てくる人。しかもその登場人物の名前は本名と一字違い程度でね、たとえば滝田修が柿田修だったり、すぐにモデルが推定できるような書き方になっているんですね。そうするとあの状況の中に全くいなかった人が書いた小説だとはとうてい思えないわけだ。
野崎 もちろんそうですけれど。モデルはそのままの行動と外見で登場してくる場合もあります。何人か複合させた人物もいます。完全にフィクション上の人物もいますけれど。
栗原 出てきた人物に、自分の人生に決定的な陰影を刻みつけたというようなことをホームページで書いておられるところをみると、相当、あの状況の中で野崎さんは、もちろんセクトやなんかという関係ではなくても、いろいろコミットされていたんじゃないかと思うんだけれども、それはどうですか。
野崎 それがですね、正確に言うと六〇年代を過ぎちゃっているんですよね。七〇年過ぎてからのことは切実に覚えているというか、書かねばならないというか。誇るべきかどうかは別にしてですね。
栗原 もちろんそれはよくわかります。ここで六〇年代と言っているのは一種の象徴的な意味で言っているので、60/70年代といった方が正確です。
野崎 正確に年代を区切ると、『煉獄回廊』そのものは六九年のバリケードの中から始まるわけですけれども、その前に何があったのかということは別に小説の素材としてもそんなにたいしたことないし、抜け落ちちゃってる。六九年一月の東大安田闘争のすぐ後だと思うんですけれど、わたしは東大の周りには来ていたんです。それから京都に帰ってすぐ京大闘争というのが始まります。あれは後から振り返ってみると、京大左翼のものすごいエリート意識だなあとわたしなんかは思っちゃうんですね。東大が潰れたから我々はやるんだという。そういうエリート意識にはちょっと入れないものがあると感じました。結局、それ以降のことはやっぱり七〇年代に属するんじゃないかなとぼくは思うんです。ですから、六九年というのがひとつそこで終わってしまった、そういう意識なんです。
 主人公の影になる人物が元の恋人を殺すところもセクトの内ゲバがからむシーンになっています。きわめて重要なエピソードがセクト政治に彩られているので、何か小説ぜんたいがあのあたりから、ずいぶんと暗鬱なセトク色に染まってくるように思えるんですね。作者としては、新左翼の動向をそれほど全面的にとりこむつもりはなかったんですけれど、結果としてはずいぶん政治色の強いものになっている。勢いがついて止まらなかったと言うと無責任ですが、というかヘボ小説家の言い訳になりますが、元のプランはもう少し流動的だったと思います。途中で軌道修正がきかなくなったところがあります。革マルが関わった「水本事件」にしろ、ぼくはじっさいに知らないです。ちょっと強引にとりこみすぎて話をややこしくしちゃったかなって感じです。全共闘小説という評価が出るのは、そのあたりの狭さなのかな、とも思います。
 主人公の錯乱の多くも「裏切った」という負い目から肥大していきますし。
 わたし本人の七十年代というのは、それほど暗鬱でも、政治一辺倒でもなかったです。『煉獄回廊』はそれらを苦行のように背負っている印象がありますから、その分、自分にたいしても正直になっていないような気がします。もっと明るくて恥知らずでつじつまのあわないもろもろも、わたしの通過した七十年代にはいっぱいあったということですね。それを別に書きたいというか、書かねばならないという気もしきりにします。『煉獄回廊』裏ヴァージョンみたいなものですね。
 あのころ一緒に暮らしていた女性の弟が、ぼくらのことが原因で精神病院に入ったということはありました。それで、わたしが右も左もわからないくせに病院に話を聞きに行ったんです。そのときの情景は小説にも取り入れていますが、小説中の人物は行方羅門〔なめかたらもん〕という名前になっています。赤軍派に流れて、それ以降の人生をセクト一筋で生きて、ついには内ゲバ殺人部隊の隊長格にまでなるわけです。モデルとはまったく別人になってしまった。これはフィクションのなかで人物がひとり歩きしてしまったということです。羅門は最終的にはドッペルゲンガーの監視人、主人公を倫理的に裁く人物になります。内ゲバで人殺しをしている男にだれかを裁く資格はないのですが、小説での位置は審判者となっています。最初の場面を描いたとき、この人物がとてもそこまで重要な位置を占めるとは想像もつかなかったです。
栗原 ただ、行方正時という人がいますよね。実際に榛名山ベースで殺された。
野崎 そうです。連合赤軍の。
栗原 それとは全然関係ないわけですか。
野崎 名前を取っただけです(笑)。
栗原 これだけは実在の人の名前が出てきたのでちょっとびっくりしたんですが(笑)、そうですか。この羅門の姉が主人公の最初の恋人ということになっているので、ちょっとこだわりました。
野崎 行方【ゆくえ】と書いて「なめかた」と読む。あれは名前を借りただけなんです。行方未知という名前をつけたかった。ただあの女性は小説の人物としていまひとつ肉体を持ち得なかったのではないかと反省しています。名前の力がすみずみまで行き渡らなかった。
栗原 ああそうですか。あまり現実の野崎さんの自伝的なところを伺うことが今日の目的ではなくて、むしろ、『煉獄回廊』の中に描かれている様々な思想だとか、あるいは出来事をフィクションだとして、そのフィクションが事実と重なっているところがたくさんあると思うんですけれど、なぜそれを探偵小説という形で書いたのか、あるいはもっと広げて言えば、一九六〇年代――もっと後の七〇年代前半まで含めてこの際言っているわけですけれど――いわゆる「六〇年代的なもの」を表現するのに、どうして探偵小説というジャンルを選ばれたのか、というのはどうでしょうか。
野崎 本当にたいした理由はないんですよ。やっぱり一応ミステリー作家として認知されているんで、ミステリーを書きなさいという話が来るわけです。天皇制と昭和をミステリーで書けというとんでもない話がまいこみました。とんでもないというのは、業界の営業的な意味においてですね。きわめて真っ当な話ですが、めぐりあうことは滅多にないです。まあ、さっき言った友情小説の構図というのがやっぱりこの小説にも基本的にあって、それをどういうふうにして噛み砕いていけばいいかというのをいろいろ考えていたわけです。一つはミステリー特有の交換殺人という道具立て、あれでやっていくとわりと簡単に出来るんじゃないかと思った。でも実際には友情小説を成立させる二人の人間を書くということではなくて、二人の人間じゃなくなっちゃったわけですよね。ドッペルゲンガー、実は記憶に欠落があってそれがドッペルゲンガー化するというプロセスです。そういう様式に落ち着いたわけです。
栗原 もうちょっと前にさかのぼって、野崎さんが六八年に、前に塔昌夫の名前で出た中井英夫の『虚無への供物』の初版本を古本屋で手に入れて、非常に感銘を受けたということを書いておられて、その頃からですか、探偵小説に対する関心を持ちはじめたのは。前からずっとあるわけですか。
野崎 ミステリーそのものは小学生ぐらいからずっと読んでますし、ただ、『虚無への供物』のことでいえば、六九年に大々的に夢野久作ですとか、久生十蘭ですとか、いわゆる異色作家、異端のミステリー作家、戦前のミステリー作家が発掘されてくるわけですよね。本来子どもの頃から外国の翻訳ミステリーなんか読んでたわけですけれど、そういう素地にプラスして、時代の流れみたいなものでね、変格探偵小説、日本の遺産というのをもろにかぶる、という体験があったと思います。それはほとんど私の中で戦後文学をいろいろ読んで取りこんでいくのと平行しているわけです。ですから私の文学的教養というのはその頃、原点というか、だいたいの輪郭ができたとすれば、戦後文学プラス戦前の異端の探偵小説ですね。それらで基礎を形成されたようです。それに塔昌夫の『虚無への供物』も含まれていたというわけです。
栗原 野崎さんの中で結びついて、しかも自分の文学の核のようになっていくについて六〇年代という時代が持っていた意味というのはないですか。
野崎 うーん…ちょっとそれはうまく……。
栗原 わりに文学プロパーでずっとここにつながってきちゃったという感じ?
野崎 そうだと思いますね。六〇年代的なものというのが、ちょっと私の中ではそんな鮮明になってこないんですよ。


2 全共闘小説論

栗原 ただ、野崎さんの例えば『復員文学論』にしても、やはり六〇年代というものがないと、ああいうものは出てきようがないと僕は思っていて……。
野崎 そうなんですよね……。
 話が飛ぶかもしれないけれど、最初の『復員文学論』のことからお話していきますと、あれを書いた動機というのはそんなにたいしたことじゃなかったんですよ。『同時代批評』という関係していた雑誌が、百枚評論というのをまとめてやるからというので、私は名乗りを上げたわけです。あのころちょうど全共闘ブームという現象がありました。リヴァイヴァルですね。「あの時の熱い情念よ、ふたたび」みたいな風潮で、あれが何ともかんとも気色が悪くて我慢できなかった。それを機会に同世代の文学というのはいったい何なのかっていう問いかけをまとめてみようかなと思ったんです。まあ、それぐらいの動機なんですけれど、百枚でとても書ききれなくなって、二五〇枚ぐらいになった。それを持っていくと、岡庭昇さんは、こんな長いもの載せられるわけないじゃないか、とびっくりしていました。前後編分載という形にしたわけですけれども、前編の段階でいくらかの反響もあって、当時の田畑書店から本にしましょうという話がきました。それがたまたま自分の最初の本になったわけです。いまでも、『復員文学論』の野崎なんて言われるとちょっと面はゆい感じもするんです。自分の仕事としてはそんなに本質的なところにあったという意識はないんですよね。
 これを書くときにまとめて同世代の文学というのを読んだんですけれど、実を言うとそれまで一つも読んだことはなかったんです。あんまり傍から見ていてもくだらなさそうなので興味がなかったし。そういうことに対しての反措定も出しておきたいと思ったんです。
 『復員文学論』の最初の章はいわゆる全共闘小説に対する批判ですね。批判というより、どうしてこんなくだらないものしか残せないのかと、非常に単純な憤りみたいなものを言葉でたたきつけたものになっている。結局、戦後の共産主義運動のいくらかの体験というのが蓄積されてきたわけですけれども、栗原さんも『死者たちの日々』という小説をお書きになっていますし、例えば高橋和己の『憂鬱なる党派』、高史明の『夜がときの歩みを暗くするとき』、あるいは小林勝の『断層地帯』でも、ああいったものを乗り越えるものが全共闘文学として出て来て当然じゃないかと思っていたわけです。しかし兵頭正俊の一つ二つの作品を唯一の例外として、乗り越えるどころか、同じレベルさえ全共闘小説は達成していないわけですよね。それに対する憤りというか、何か言っておかなければいけないというのが最初に『復員文学論』のモチーフにあったわけです。
 最初の章の全共闘小説論から始まって、後の章にいくに従っていま栗原さんがおっしゃった六〇年代の私の体験が濃厚に反映してくると思うんですけれども、それがねえ、あまり自分で考えてもそんなにたいしたものじゃないんじゃないかなあという感じがするんです。要するに、今時では当たり前なんですけれどサブカルチャーに対するものすごいこだわりですね。メインカルチャーじゃなくてサブカルチャーが人格を作るんだ、みたいな感情というのは六〇年代に発生したと思うんですけれども、全共闘なんかが起こる前の段階で、六〇年代の前半ぐらい、僕らが中学生、高校生ぐらいで、なんとなく培ってきた感じじゃないのかなという感じがするんですね。それをもう少し世代独自のものとして旗揚げする方向があったのかもしれない。大月隆寛が、わたしと伊達政保を並べて、サブカル左翼の両極というふうに評価してますけれど、その一面では当たっていると思います。両極というのは思想の差異ではなくて、アカルイかクライかという情念の持ちようです。伊達は徹底的にアカルク野崎は根源的にクライ、というのが大月の評価ですね。
 もしそういう世代独自のものがあったとしたら、それこそ復員文学として、我々の世代の文学というのはもっとものすごいものを作りえたのではないだろうか。戦後文学を否定するというのだったら戦後文学を超えるものを我々は用意できたのではないだろうか、と思うんですけれども、実際の話は遠く及ばなかったわけですよね。
 われわれの世代の文学というと中上健次以外に何も残らないじゃないかという気持ちは当時からありましたね。ただ中上健次はあの頃ちょうど『地の果て至上の国』という彼の一番の頂点になる作品を書いたわけです。父親殺し、天皇制批判の文学的頂点ですね。あのときはリアルタイムで判断はつかなかったんですが、中上は以降、あれを超える小説を書いていないと思います。あれから死ぬまでの中上文学というのは衰退とは言わないですけれども、やっぱり変な方向に行った。変な方向に行ったということを全然いまの中上ブームというのは言わないわけです。なんか、中上が神格化されてしまったみたいな感じは非常に困ったものです。『復員文学論』は、中上文学を途上のところで評価することになったわけですけれど、勘として、中上は敵にまわると感じていました。あとの中上の軌跡をみると、その通りになったと思えます。
 結局、世代論というと、あれから私につきまとったイメージというのはものすごく世代にこだわる奴だなというふうな言い方もあったわけです。自分自身はそういう意識はないんですけれども、人が見たらそう思うのかもしれない。なぜそこまで自分の世代の体験にこだわるのか、その理由を自分でもちょっとわからなくなったことがあります。どういうところからモチーフが出てきているのかなと思ったら、それは『復員文学論』自体にはないんじゃないかなと思いはじめているんです。ただ、偶然にあの本が私の一冊目になったわけですけれども、これで出て良かったのかなあ、悪かったのかなあっていう感じです。
 あれから全共闘世代のあいだでもっと論争しようじゃないかというふうな呼びかけもありましたけれども、結局その論争そのものは実際には残らなかったわけです。ただ僕らの世代としてはいろいろいっぱいいるんだけれども、個性はいろいろあるんだけれども、論争が起こるというよりも、結局みんな仲良しなんですね。
 『復員文学論』は途上で尻切れトンボに終わっているようなところがあります。あれで、最後に書かねばならなかったのは連合赤軍問題です。それと連赤にとどまらない内ゲバの問題。少なくともあれを書き終えた八三年の十一月ごろにはその力量がなかったと思います。活字になってからのさまざまの反応が他人事のように感じられて、自分のなかの軸もいろいろと揺れ動いていたと思います。選択肢の一つに小説を書きたいという欲求もあったんですが、あのころではとても書けなかったでしょう。『煉獄回廊』をふりかえって思うのは、自分が当時書きたかったいくらかの事柄をようやく小説のかたちで書きえたという感慨ですね。
 話はもどるかもしれないですが、七十年代が六十年代と地つづきになっているという意識をわたしはどうしても持てないです。やはり断絶があって、七十年代というのは一方ではテルミドールの季節だったと感じていた。どうにも遅れて来たというのか、輝ける日々はもう過ぎているというのか、そんな意識を払拭できなかったですね。そのなかでもまだまだ自分の好き勝手に生きる空間は残されていましたけれど。
 
3 ドッペルゲンガー

栗原 野崎さんには、探偵小説だけじゃなくて評論も含めて、なにかこう、ドッペルゲンガーに対する関心がものすごくあるんじゃないですか。
野崎 ありますね。影の人物にたいする関心というより、自分の存在にたいする疑いみたいなもの。自分はほんとうは存在していないのではないかという根強い意識です。これはどうもずっと小さいころからあったようです。この世界がニセモノだというより、この世界は盤石なんだけれどそこに属している自分がじつはニセモノなんじゃないかという怖れです。
栗原 たんに二重人格というのではなくて、存在としてのドッペルゲンガーみたいなものに対する野崎さんの関心が、僕は、野崎さんを探偵小説の世界にずっと引き込んでいったんじゃないかなというふうに、野崎さんの作品を読みながら感じたんですけれど。
野崎 それはそうです。『ドグラマグラ』に惹かれたのも、まさにそれです。『Yの悲劇』にしても、あれは十三歳の少年がマリオネットのように操られる物語だ、とまず最初に読めてしまうわけです。基本的には、自殺したおやじの書いた殺人小説のすじ書きが隠してあって、それを盗み読んだ子供がその通り実行するんですが、操られているのだと読んでしまう。テキストで凶器を指定してある箇所を子供だから読み間違えてしまうところとか、背丈が小さいから薬品庫の棚から毒を取り出すとき椅子を使って手がかりを残してしまうところとか、ミステリーでは常套の複線の張り方になりますが、そういう部分にいちいち震えがきてしまったりする。わたしにとって『Yの悲劇』は、何よりも操られた子供の悲惨な話だったんです。その時分は推理小説といって、今はミステリーと称しますが、どちらの用語もぜんぜん想像力を刺激しない。塔晶夫が素敵だと思ったのは、探偵小説という呼称を自覚的に選んでいたからだと思います。存在を揺り動かしてくるものは、すべて探偵小説と呼ばれないといけないと感じていました。
栗原 『煉獄回廊』には二人の主人公がいます。日置高志と沖孝。つまり「日=非」が付くか付かないかなんですね、これは。そういう形で二人の人物を設定して、実は、沖孝というのは実際はいないわけですよね。だけど非常に重要な役割を果たしているわけだけれども。六〇年代の中で生きていた人間というのはある意味ではそういう分裂している、というふうに見ているわけですか。
野崎 そうじゃなくて、私だけのケースだと思うんですけれど……。
栗原 僕なんかはやたらと分裂した奴とばっかり出会っているから、ある意味では普遍的な現象だったんじゃないかなと思いながら、よけい、面白く読んだんですけれどね。
野崎 時代そのものが何か大がかりな分裂症を呈していたというふうにも今は思えます。そういう中でナイーヴな人間はすべて、分裂気質というものを個人で背負っていたんではないですかね。お祭りが日常性だった時代にあって、そこに居心地よく適応していた連中はそれぞれけたたましい分裂症状の生き様を残しているわけだし、それが全共闘のいわゆる昔の「自慢話」のコアにもなっているんでしょう。それを小説の題材にすれば、やはり七十年代特有の特権的なトポスが前面に出てきますよね。ああいう無茶苦茶な暮らしが当たり前だったんだなあと我ながら呆れるところろがあります。
 でも小説が目指さなければならないのは、そうした自明に「幸福な季節」が過ぎ去ったとき、個人の責任はいったいどうなるのかという点を解明することです。わたしの言い方というか、『復員文学論』の文体からすれば、世代の責任みたいになりますけれど、最終的には個人でしょう。分裂症というのは、それぞれの個人が胸に抱いて収束をはかる必要があった。まあ、世代の総転向みたいな現象ですけれど、これはわりと全体的にはスムースに移行したと思います。自己正当化の論理には事欠かなかったわけだし。その代わり、総転向には関わらなかった部分に対しては償いようのない害毒というか遺恨をふりまいたのでしょう。つまり「全共闘体験の遺産」と呼ばれるべきものは、それに関わったりそのカテゴリーに入る身内の人間以外に対してはことごとくマイナスに作用する困った代物なのですね。当事者にそういう自覚が少しでもあればそのマイナス作用もいくらかは軽減されるはずなんですが、それもあまり望めない。自覚症状はきわめて薄かったと思います。
 話をもどしますと、ドッペルゲンガーはミステリーを書く上でのテクニックでもあるんです。小説の枠組みですね。『煉獄回廊』を書こうとして挫折したことが何回かあるんです。最終的に枠組みとして利用したのはリチャード・ニーリーの『殺人症候群』です。これはドッペルゲンガーをあつかったサイコ・サスペンスです。二人の人間だと思いこんでいた男が最後には一人の人格の分裂体だったという結末になります。基本は二重人格ですが、これは発表された時期が比較的早かったのでそう称されなかっただけで、典型的な多重人格の症例をミステリーにとりこんだ作品です。
 わたしも一回は多重人格の小説として書こうと試みたんです。
 多重人格障害というのは、正確には、解離性人格障害といいます。いちばん多くみられるのは、幼児期に性的虐待(セクシャル・アビューズ)を受けて発症していくというケースです。現実の生活のなかに耐えがたい脅威があるとします。自分の親から性的なものも含めて暴力を伴った虐待を日常的に受けるというような脅威ですね。そこから逃げるために、他の逃避手段がなかった場合、想像の人格をつくってそのなかに逃げこむわけです。現実の自分を打ちくだくような恐怖と脅威も、別人格のシェルターに逃げこめば通り過ぎていってくれると思える。基本的にはだから、自己防衛のメカニズムともいえるでしょう。想像の人格の殻に閉じこもっているかぎり、現実の脅威は進入してこれないのです。ところがこのメカニズムがさらに進行していくと本来の人格との接点が切れてしまうのですね。元の人格にもどれなくなるのではなく、人格を切り換えた別のステージの記憶がなくなるのです。他の人格のときやった行動や感じた意識を思い出せないという症状は、これにあたります。一人の人間を統合している統一性が喪われるのです。
 子供のころ、マルセル・エイメの「一日おきに存在することしかできない哀れな男の話」なんかがとても好きだったんです。病例にあてはめれば、これは多重人格の症状ということになりますよね。
 何年か前ですけれど、『24人のビリー・ミリガン』を書いたダニエル・キイスが来日して、ちょっと話したときに、言葉は悪いんですけれど、感銘を受けたことがあります。ダニエル・キイス氏とちょっと対面しただけで、この人は本当にまともに幼児期の辛い体験をくぐってきた人なんだなというのがぱっとわかっちゃったんですね。ビリー・ミリガンはこの極端な症例で24人分の分裂人格が確認されたわけです。そのなかには、外国語をしゃべる外国人から幼い少女までが含まれています。ビリーという元の人格はずっと眠らされているんです。なぜかというと、彼が人格のステージに出てくると絶望して自殺してしまうからだといいます。沢山の人格のなかには善役と悪役とがいて、悪役はビリーを引っ張り出して「自分たち」の個体を手っ取り早く終わらせようと画策したりします。ダニエル・キイスによれば、多重人格障害は精神病ではなく治癒可能な精神病質にすぎないのだといいます。記憶の不快な断裂と自殺願望が激しいほど症状は重いわけですね。しかし治らない病気ではない。
 わたしも自分の現実逃避のメカニズムを思い出してみると、やはり想像上の人格をこしらえてその殻に閉じこもろうとするみたいな局面があったと思います。ただわたしの場合は、それほど決定的に強い外因はなかったので、つくりあげた人格が独り立ちして元の人格との接点を切ってしまうところまで到らなかったのでしょう。ただ、だから人より多少はこのケースを深く理解できるような気はしていました。
 ミステリーのローカルな現場では多重人格ものというのはけっこう書かれたり、作家で「私は多重人格だ」とかいう人がいたりしたんですよね。それで自分もそういうのでちょっと試しにやってみたらどうかなと思って、多重人格サスペンスを試してみました。結局、うまく完成できなかったんです。多重人格というのは必ずしもドッペルゲンガーじゃないんですね。ドッペルゲンガーが複雑化したというものではなくて、ちょっと別のカテゴリーとして考えたほうがいい。そのときは兼業で、会社で働きながらものを書いていたので、結局、家に帰るたびに人格を入れ替えないとものを書けない。それで自己暗示みたいなものとしてね、俺は多重人格だと、六重人格を演じ分けているんだと、思いこむようにしました。六助だから六重人格。じっさいに六人分くらいの分裂はしょっちゅう感じていました。そういうミステリーを構成しようと思ったんです。それは結局失敗してしまいました。小説の枠として使いこなすのが無理だったですね。じじつ、ひところ多重人格サスペンスというのは、ものすごく流行ったんです。アメリカ映画でもけっこうありました。あれはほとんど全部ゴミでしたね。
 失敗した構成として考えていたのは、多重人格のところが、一つの人格ごとに一人の女を殺す。六重人格だから六人殺します。で、元の人格に戻ってもう一人殺す。合計で七人の女を絞め殺す、というふうな一つの案を持っていたんです。ただそれが自分の力量では、七人の女を絞め殺すんですけど、それが全部同じ場面になっちゃうんです(笑)。絞め殺す描写がすべていっしょでした。六人おんなじ人格が並んでるだけだった。個性を書きわけられない。非常に単純な繰り返しになっちゃうんですよね。『煉獄回廊』の主人公の通称が多羅尾伴内というのはそのときの名残りです。「多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ」です。七つの顔の男だから六重人格の一段上のレベルにいる(笑)。じつは、野崎六助の前のペンネームがそれです。格好良かったんだけれど、呼ばれるときとか、自分で名乗るときとか不便でしょう。実用的じゃないから諦めた。
 それで多重人格の方向は断念して、またドッペルゲンガーの話にもどしたんです。ドッペルゲンガーに交換殺人を組み合わせた。
 ただ構成的な工夫だけで『煉獄回廊』を書くことができたわけではないでしょうね。なんとかくぐり抜けることが出来たのは『謎解き「大菩薩峠」』を書いてからなんですね。あの『大菩薩峠』を自分なりに読むという体験は非常に深く自分の小説家としての奥底にあるものを掘り出してきたんじゃないかなと思っています。ですから『煉獄回廊』は『謎解き「大菩薩峠」』を書かなかったらできなかったでしょうね。
 幻想と現実がすれ違うというのか、現実とは別のステージが自分の意識に現われるということは、いつも起こっているような気がします。いちばん見やすい発現がドッペルゲンガーという現象なんですね。『大菩薩峠』も極端にいびつな天皇制日本人ドッペルゲンガー小説ですから。
 幻想と現実とを天秤にかけると、決まって幻想のほうがいつも優位にきます。わたしにとって『大菩薩峠』の後半は、一大幻想ファンタジーとしてまったく抵抗なく読めるわけです。だから病気をしても普通の病気にかからないのかな。内臓を悪くしたことはないですし、五十年も生きたらどっか悪くなりますから、神経とか脳とかに過負荷がくるんでしょう。抜いたはずの奥歯から激痛が発してくるという奇病は小説に書いたとおりです。あれは交感神経がおかしくなった。こないだは脳にきました。『ドグラマグラ』の病例的実践みたいなもんですね。治ってみるとゲンキンなもので、病気自慢をしたくなります(笑)。医者も首をかしげるような悪化の症状を呈しました。入院十日目くらいで、ふつうは回復してくるはずが、急激に悪くなったんです。最悪のときは三日三晩寝ないで、肉体は全身痙攣の状態だからベッドにしばりつけられて、譫言をしゃべりつづけていたらしい。あとで聞いたからわかることですが、現実レベルで自分が何をしたとか言ったとかはぜんぜん知らないんです。けれども、一方の妄想のレベルでは、これが非常に意識ははっきりしていたんですね。幸いにして、この記憶はだんだんと薄れていってくれてますけど、当初はほとんどそっくりそのままわたしの頭を占拠していました。どんな悪夢でも夢は見たそばから忘れることができます。けれど醒めて見る夢は意識のなかにずっと沈んで残っているんですね。
 幻覚を見ること、その幻覚がたとえば自分が命を狙われてどこまでも追っかけられるといったようなストーリー性を持つことは、わたしのかかった病気では一般的なんだそうです。全身の痙攣もそうです。あとで聞いてたいへん安堵したわけですが、それにしても幻覚レベルのことが克明に記憶されているといった事態は辛いんです。病室の情景とかベッドに身動きならず縛りつけられている不快感とかも、幻覚シーンに別のかたちで入りこんでいましたから、意識は現実レベルにも少しは開かれていたんでしょう。しかし幻覚のレベルで意識はほとんど全開状態だったんですね。まったく無防備だったということです。しかも克明に記憶して保存している。ちょっとたまらない状態です。まわりでも「こいつはもう再起不能だろう」と見えていたようだから、たまらなかっただろうけれど、本人も幻覚レベルで意識が無防備に全開になっていることが耐えがたかったです。
 幻想と現実のすれ違いという様相は、病気のときも通常以上にはっきり起こっていたんですね。充分に恐怖は味合わされましたが、残念ながらわたしの体験した恐怖の幻覚のストーリーは創作には利用できそうもないものでした。第一、長すぎるんです。三日三晩の大河ドラマですから(笑)。引き延ばしの場面が多すぎる。イメージ的にもけっこう繰り返しが多用されていましたし。繰り返し・反復はホラーの常道といっても、かなり単調なパターンで、要はわたしの主観だけを痛めつければいいという目的で構成されたものですから、転用はきかないんですね。いちばん鈍いダメージのくる恐怖というのは、ただ不愉快なだけの代物かもしれません。しかしこういうのはすべて後知恵ですから、幻覚にとらわれていたときはかなり徹底的に痛めつけられました。


4 曲馬館

栗原 これもまた『煉獄回廊』に天馬団という名前ででてきますが、野崎さんは七〇年代の初めですか、曲馬館の芝居に関わっていたわけでしょう。
野崎 初めじゃないです。半ばから後半になります。
栗原 それは役者なんですか、それともどういう形で?
野崎 役者じゃなくて、最初は客です。非常に彼らは観客を惹きつけて、オルグしていくという面があるんですね。で、素人でもどんどん芝居に出しちゃう。それが方法論でもあったわけです。七六年が最初の出会いです。人によっては曲馬館の一番の最盛期というのはそれより前にあって、七六年にやった芝居というのはたいしたことないというふうに言う人もいます。それはともかく。七六年の五月に京大の西部講堂に曲馬館が来て、それからです。芝居は『日本乞食オペラ』と『踊る一寸法師』の二本立て、日替わり公演です。『オペラ』のテーマはひとことでいえば、「ヒロヒトを殺せ」です。東アジア反日武装戦線狼の虹作戦に呼応したものですが、衝撃を受けたのは、そうしたアジテーションの側面じゃないんですね。芝居がはらんでいた名づけようのない混沌とした活力に何より打たれたんだと思います。誤解をまねくような言い方になりますけど、アジテーションだけなら「ヒロヒトを処刑せよ」が「天皇陛下万歳」にでんぐり返っても、衝撃の質はいっしょだったと思います。
 そのとき曲馬館は全国縦断旅興行を数ヶ月つづけて、最終的に九月に東外大の日新寮で無許可でも上演するという方針を立てていました。九月二五日、日新寮に突入して、一五名逮捕という事態になります。そのとき救対みたいな活動があったんです。東京をもちろん核にしていたんだけれど、京都も人が自然に集まってきたんですね。京都でも芝居だけじゃなく音楽をやってる連中なんかが曲馬館という刺激を受けて集まりました。曲馬館の中心メンバーが六名起訴されて裁判になった。あのころは新左翼党派の裁判闘争もずいぶんと行儀の良いものになっていたと聞きますが、曲馬館の裁判は紛糾したものでした。大げさにいえば、法廷がアングラの舞台になったみたいな。傍聴席からヤジ飛ばすとか、セクトがやらなくなっていたことを復活させたんですね。裁判官は、あいつ近藤ってやつだった、屈辱感に顔がひきつりどおしでした。菅孝行さんが特別証人で弁論をしてくれました。しかし裁判官には馬の耳に念仏でした。裁判官忌避という戦術をとったんですが、それで法廷が騒がしくなったときに、被告の一人が立ち上がって近藤に面と向かって「おまえはクビじゃあ」と叫んだんです。傍聴人は全員、退廷を命じられた。裁判所から追い出されちゃった。弁護人は「あれはクビと言ったんじゃない、忌避と言ったんだ」という苦しい言い抜けを試みていました。忌避なんてむずかしい言葉、叫ばないですけどね(笑)。
 そういうかかわりで、また足が抜けなくなったんです。七〇年代の後半だいたい曲馬館とのかかわりというのは続いていますね。実際に入ると言ったのは七八年だと思うんですよ。沖縄興行に行ったときに付いていって、そのときはもう、京都の暮らしを清算して東京に出て行こうと思っていましたから。必ずしも曲馬館に入るから東京に行くっていうんじゃなくて、自分は物書きとして生きていきたいから東京に行く、その一つの環っかとして曲馬館にもかかわりたい。それが七八年ですね。七九年の正月にこっちに来たんですけれど……。
栗原 そのときから野崎六助というペンネームに?
野崎 野崎六助は、七六年ぐらいに付けたんです。いや、さっきも言ったようにいっぱいペンネームは付けていたんですよ(笑)。どれがいいかなっていうんで、野崎というのは非常に据わりのいい名前で、呼ばれても別に抵抗はないし、自分で名乗るのもまあ言いやすいし、それが自然と定着してしまいましたね。
 で、七九年の正月に京都の下宿を引き払って、曲馬館の稽古場に何人か住んでいたんですけれど、そこに住みつく。そうしたら間の悪いことにですね、曲馬館はほとんど壊滅状態だったんです(笑)。七九年は曲馬館をどうするのかっていう話し合いでずっと過ぎてしまいました。それは消耗しましたね。なんで俺はこういうところばっかりかかわるんだろうとか思って。そのときは自分が芝居の台本を書くというふうに言っていたんですけれど、台本も何も、集団としてガタガタになっていて、やめていく奴はどんどんやめていくし、もう支えきれないというところまで行っちゃったんですよね。七九年には、寿町の夏祭りに参加して短い芝居をやりました。その年の活動はそれだけでした。役者は七人くらい、時間も一時間ほどでした。わたしが台本を書きましたが、オリジナルじゃなくて『四谷怪談』と『犬神博士』をパッチワークしたみたいなものです。あれ書いて困ったのは、書いた者が演出もするんだという不文律が曲馬館にはあった。ぼくはそんなこと知らんです。翠羅臼は役者で出ないので身体もあいているし当然、演出するんだと思って、こちらは台本さえガリ版をきって印刷すれば自分の役は済むと決めこんでいた。ところが稽古が始まるとみんな役者はこっちを見るんです。セリフが一段落するとこっちの反応をうかがう。なんでオレの顔を見るんだよと思ったけれど、演出もやれという流れになっているのだとわかって焦りました。しばし立ち往生というところでした。あとで梅本というやつが言うことには「おまえはおとなしすぎて演出に向いてへん。もっといろいろ言わなあかんよ」と。こっちは演出の仕方なんてわからないから困り果てていただけなんです。
 そのあたりがちょうど八〇年代になって、僕の暮らしもちょっと切断があるんです。いわゆる分裂的な人間というのがいっぱいいたんですけれども、本当に気が狂ったみたいな人間が。まあ、振り返ってみればあれが六〇年代的人間かなあとか思うんですけれど、アングラ芝居の役者なんてのはまさしくそういう六〇年代の申し子ですよね。ただそれが七〇年代も続いていたなという記憶が非常に鮮明なんですね。自分の個人的な体験も重なるわけですけれど、それは七〇年代でだいたい終わっちゃったなと思っています。ですから、『復員文学論』の復員という意味は、終わっちゃったものを再戦したいというふうなモチーフがあったんだと思いますね。
 当時のいわゆる唐十郎以降のアングラ劇団ね、ことごとく再編成というか再編成できなくてそのままになっちゃったところもあるし、曲馬館だけじゃないんですよね。例外なく、もう、一つの時代を終えてしまったと思うんです。
栗原 しかしそのなかから風の旅団のように、八〇年代を生きぬいた劇団もでてくるわけでしょう。
野崎 旅団に関してはまったくそうです。一つの時代が移り変わって、新しい組織論が用意されたのだと理解しています。ただ、旅団の活動と寄せ場の運動、それと佐藤満夫と山岡強一による映画、それらは全体として歴史化されなければならないと思います。その作業はわたしにはちょっとできないです。映画『山谷 やられたらやりかえせ』に関しては少し書きましたけれど、寄せ場の運動全体、文化運動と政治闘争の総体と関連づけて評価していく必要があると思う。わたしはその任ではありません。現場に身をおいてなかったからですね。
 九一年に曲馬館の仲間だった梅本功光が死んで山谷の労働者福祉会館でお別れ会がありました。そのときのことを書いて『エイリアン・ネイションの子供たち』の終章に付け加えたんです。本の内容とほとんど関連なかったけれど、自分のなかではつながっていたので無理矢理入れました。あとで梅ちゃんの追悼文集が編まれたとき、それを再録しました。時間の余裕はあったから、ほんとうは追悼文集用に別の文章を書くつもりだったんですが、どうしても書けなかった結果です。編集をやっていた桜井大造は「あそこに全部書いたんだから書けなくて当たり前だよ」と了承してくれましたが、わたしとしては追悼文の別ヴァージョンを書けなかったことが心残りになっています。わたしは旅団について劇評めいたこともふくめて何も書いていないんですね(いちどだけ旅団の公演が官権につぶされたことの抗議文を『同時代批評』の八号に書いただけです)。書かなかったというより書けなかったんでしょう。池内文平にはどこかに書くように言われたけれど、四苦八苦して結局断ってしまつたことがあります。だから追悼文の別ヴァージョンを書けなかったことは、旅団について書けなかったことと同じだと思えるんです。やり残しみたいなものです。
 桜井が言うには、あの追悼文集には三つの柱があって、翠羅臼と大谷蛮天門と野崎六助だというのです。翠にしろ大谷にしろ、どちらも見事に己れの歌舞いた生き様と梅ちゃんとの交渉との情景が回想を通して表われているんですね。わたしのは、やはり、自分の本用にどこかつくったところがあります。追悼文集用ではないんですね。あれは手作りで出来た本ですけれど、昔の『曲馬館通信』を思い出させます。
 曲馬館では、そのあと、高木淳と市川米五郎が死にました。『道化と鞦韆(ブランコ)』という芝居のとき、梅と高木のおっさんと米五郎が三人組で出てくるシーンがあるんです。ちょうどあの芝居のころには稽古場にその三人だけが住んでいて、いつもささいなことで口喧嘩していた。その日常を翠の台本がそのまま取りこんでいて、すごく滑稽でもの哀しかったのをよく憶えています。何か偶然ですが、その三人が故人になっています。米五郎の死にさいして翠が書いた文章はたいへんに心にしみるものです。
 九四年になって、桜井が旅団を解散して、新しく「野戦の月」という集団を結成しました。解散というより、発展的解消というべきですか。活動はつづけていきながら、別の公演形態を模索していく方向だと思いました。そこでわたしも芝居原作を書き下ろすという形で引っ張られるわけです。まあ、わたしを現場に呼びもどすための桜井の友情だったと感じました。しかしわたしにはもう芝居の現場が居心地いいと思える感覚が消えていたんですね。「野戦の月」という集団も、一つの芝居をやるために桜井を核としてそのつど人を集める実行委員会みたいなものだったと思います。まあ、『幻燈島、西へ』という公演は、わたし個人に関するかぎり、あまり面白い展望は見つけられずに終わりました。わたしのなかでは芝居現場への反応の仕方がもうずいぶんと変容していたのでしょう。
 原作本については平岡正明さんに褒められた。褒められたんじゃなくてからかわれたのかもしれないですけど、よくわからない。
栗原 すこし雑談的な質問になっちゃいますけど、小説にも出てきますが京都時代に太田竜にお会いになったことがあるんですか。
野崎 えーっと、正確に言えば、まだ京都に住んでいて東京に出てきた時なんです。会ったというか、会わされた。新宿の喫茶店で。片っ端からあの時太田竜に会わせたがる奴がいてね、適当に紹介するんですね、曲馬館の誰それだとか言って。見たらがっかりしてね、これがドラゴンか(笑)。なんか学校の先生みたいなタイプなんですよね、非常におとなしくて。当時、爆弾闘争の三教祖と称された人で、平岡正明と竹中労は、文章そのままのアグレッシヴな人でした。竜将軍は文章との落差があまりにも極端だったですね。だからよけいに忘れられない。白のワイシャツを着てね、きっちり三回折り畳んで肘が出るようにしているんですよ。で、一生懸命折伏しようとしゃべるんですけれどね、声が小さくて聞こえないんですよ(笑)。でかい喫茶店だったから。聞こえないけど、適当に「はい、はい」と言っててね。もともと著書でも尊敬しているということはなかったから。ちょっと迷惑だなあと思った。新宿の喫茶店で会って、帰りにお好み焼きを食べに行ったんですよ。そうしたら、お好み焼き、焼けないんですよね、あの人。で、焼いてあげて(笑)。


5 小説家・野崎六助

栗原 『物語の国境は越えられるか』という本に収められている、これは文芸評論ですけれども、戦後文学批判の中で、全体としてアジアがなぜ見えないかというのが大きなテーマになっていますよね。アジアに対する関心というのはいつ出てきたんですか。
野崎 七〇年代の半ばから後半ぐらいだと思います。野崎六助というペンネームが定着したのもその頃だと思うんですけれど、一応自分が物書きとしてやっていくんだということがはっきりしたのが七〇年代の後半ぐらいだったと思うんです。その頃は小説が書けるとは思っていなかったので、自分は評論をやっていくんだろうなと思っていたんですね。そこで、植民地文学というのをやりたいなというのをなんとなく思ったんですね。自分の関心はたえずそういうマージナルな境目にいくんですよ。その国の文学のメインになるものではなくて、周辺的なものにいくんです。日本の文学だったら植民地文学、あるいは移民の、ブラジル移民の文学ですね。あるいは日系移民の文学とか。そういうところにどうしても興味が行ってしまう。そこで在日朝鮮人文学というのも視野に入ってきたと思うんですけれども、ただあの頃はまだそんなに腰が座っていなかったから、なんとなくこういうのが好きだなあっていうので作品を集めていた感じですね。
 それで、文芸評論家として直接上の世代の人たちがやっていない仕事を自分がやらなければしょうがないじゃないかと思った。戦後文学批判だと岡庭さんとか菅孝行さんとかの仕事があって、あるいは植民地文学論に続いていくような方向は平岡正明さんがやっていたし、ですから例えばあの三人の仕事を考えてみると、彼らがやっていないことというのはすごく少ないんですね。同じことをやっていったら、もう、彼らのエピゴーネンになるしかないじゃないかっていう感じがすごくしました。
 あの頃に衝撃を受けた作品は田中英光の『酔いどれ船』と金石範の『鴉の死』だったんです。この衝撃の受け方というのは、二つでかなり違うんで、『鴉の死』に関してはほとんどぶちのめされたような感じが残ったんですね。これに対して何かを論じるというのは不可能じゃないのか。最初はどう読んでも日本語の文学だということが信じられなかったんですね。なにか、外国語の翻訳の世界のような質感がありました。あまりにもその厳しい世界に自分が対峙することに耐えられるのかどうかというのが最初思ったことですね。それは在日朝鮮人文学への入り口になるわけです。それと『酔いどれ船』に対する衝撃というのはちょっと違いますけれども、日本人としてあれだけの体験をしたということですよね。体験そのものを許すとか許さないとかではなくて、ああいうものを小説として残したということ、これは日本人の体験としてすごいことではなかったのかと思った。それで田中英光について書いてみようかと思って、ほかの作品も読んでみたんです。田中英光の全集はその当時は割とすぐに手に入りましたから。そうすると田中英光の他の作品があまりにもくだらないので、ちょっとがっかりしちゃったんですよ(笑)。それで『酔いどれ船』だけがどういう意味を持つのかということなんですが、当時の植民地文学、国策文学、親日文学と言われたもの全部検討しないと、ちゃんとした評価はできないんじゃないかと思ったんです。そういう作業の入り口に立ったのが七〇年代の後半、まだ三〇前のころでした。僕自身も分裂気質の典型的なものだったと思うんですけれども、きちんと腰を据えてできないわけですよ。さっき言ったような『酔いどれ船』の評価にしても例えば平岡さんがやった仕事をどれだけ越えられるだろうかと。あるいは平岡さんがやっていないところ、岡庭さんが書いていないところを、すり抜けることができるかと思ったら、どうしても重なってくるんじゃないかなあと思ってしまったわけです。それで一応あのときは日本文学なり、日本のマージナルな文学への関心をちょっと捨てて、『北米探偵小説論』を書く方向に動いたわけです。
 七〇年代の後半にまとまった時間がありましたので、これの原型になる部分を書いたんですけれど、それは結局、誰もやっていない仕事をやりたいなあっていうことだったんです。で、アメリカ文学を全部一応ひと通り走破して、その中でアメリカのミステリー作家というのはどういう位置を持ったのかということを辿っていくわけです。それは僕だけに与えられたテーマで、誰もやっていないから、非常に気持ちがいいなと思ったんです。
 アメリカの文学、その中でもメインの白人の文学ではなくて、黒人の文学に惹かれていくわけです。それがなぜかというのはちょっと自分の中で明快な答えはないんですけれども自然とそういう通路になってしまう。白人文学でも、フォークナーは別ですけれども、ヘミングウェイなんかはちょっと読んだらだいたいわかったという感じになってしまう。そんなに一生懸命追っかける気持ちにはならないわけですよ。でも一方でリチャード・ライトみたいな作家がやっぱり非常に興味を持ってしまうわけです。当時ぼくらがやっていた文学グループが黒人文学研究会。略してコクブンケンです。そう称されるのはあまり愉快じゃなかったです。アメリカの黒人文学も在日朝鮮人文学も同じような距離感で見ていたところがありました。少し後先になりますが、詩人の金時鐘先生と出会ったのが七四年ころです。このあたりのことを書いた一文「幻野の在日」はホームページにアップしてあります。
 七〇年代の後半というのはそれがいろいろごっちゃになっているわけです。『煉獄回廊』に書いたみたいな体験と、自分なりに自分の世界を確立して物書きとしてやっていきたい、というのと、いろいろせめぎ合っていたというか。振り返ってみれば、要するに腰が座らなかったということなんです。
 太田竜との一件もそれなんですよ。今は笑い話ですけど、結局それだけを手掛かりにして、公安のバカにあいつは爆弾犯じゃねえかっていう目星をつけられた。一連の神社爆破闘争ですね。嫌疑をかけられたのは、西部講堂に出入りしていた私ともう一人と二人いたんですよ。公安に苦しめられた体験というのはほとんど『煉獄回廊』に書いたそのままなんですけれど。いったい何で、というようなばかげた感じがするんですよ。何で俺が爆弾を作れるんだと。
栗原 滝田救援会にも関係していたんですか?
野崎 あれはフィクションです。あれは救援会の内部のことは書いてないでしょう。精神病院の内部もそうです。開放病棟にいる病院の患者がじっさいに芝居をやったという設定は事実です。その芝居は客席から観ていますが、小説の場面のように、わたしは役者で出ていません。
栗原 そうですね。ところで話を元に戻しながら終りにしたいとおもいますが。最初にも言った笠井潔の『煉獄回廊』への批評ですが、彼はいままでのような転向論が成り立たなくなった時代として九〇年代というのを言って、『煉獄回廊』はだから未完なんだと、あれは続編として九〇年代を書かなければならない、というのがあの評論の締めですよね。
野崎 そうですね。
栗原 それは僕は正しいと思うんだけれど、どうですか。
野崎 九〇年代転向の特徴的なものは、結局、ソ連邦が解体してしまったということですよね。いままで、曲がりなりにも国家としてソビエト連邦というのがあったし、共産主義圏というのがあったわけですけれども、それがなくなってしまった場合、いったい何を希望として、我々、というか、左翼は自分たちの位置を確保できるのかということですね。それがますます見えない時代になってしまったと思うんです。そういうところで「転向しない」というのはいったい何なのか。いままでの古典的な価値観での「転向しないで頑張る」ということはいったい何なのかというと、結局、転向しないことこそ転向ではないのかという、アクロバティックな議論ですよね、どんどん転向しないとこの時代はやっていけないんだという考えもあるわけですけれど、それがけっしてポジティブになるのではなくて、ネガティブに行ってるような気がするんです。私の周りでも昔ながらの左翼をやっている人間は何か時代からはずれてるような感じがしてしまって。時代からはずれないということはいったい何なのかという、その内実がよくわからないんですね。
 『煉獄回廊』という小説は九〇年代が始まる前に終わっているんですよね。九〇年代の体験をどういうふうに考えるのかっていうのは、まさに横に置いちゃって、考えていないわけですけれども、これから何かを書いていくとしたら、当然九〇年代の体験をどういうふうに昇華していくのかっていうのが問題になってくると思うんです。それが自分の中では最大の懸念ですね。いったいどういうふうになっていくんだろうか。
 ですから、「文学史を読みかえる研究会」というのもその中で、そういう危機感から生まれてきたと思うんですけれども。僕の中ではそれが十分に課題に答えられているものなのかなと、そういう気がするんですね。こういうふうに言うと栗原さんの方から反論があるかもしれないですけれども。
栗原 文学史を読みかえる研究会についてですか。
野崎 ではなくて、転向論全般について。
栗原 ソ連にそれほど我々の運動が依拠してきたとは思わないんだけれど、あれがなくなっちゃったということ、つまり現実に目に見える社会主義というものがなくなっちゃったということはこれはやはり決定的に大きいですよね。支持するかどうかは別にして。ただ、やっぱり僕はあれを変えていかなきゃだめだという立場だったから、変える対象がなくなっちゃったから相当大きかったですよ。
野崎 そうなんですね。
栗原 それで、続編はお書きになりますか。
野崎 続編のつもりで書いたのが、なにか違ったりして(笑)。本人の「つもり」とはずれたんだろうなと思っている。
 九十年代の初っぱなに書いた『エイリアン・ネイションの子供たち』。あれが自分の評論の頂点だろうと思っています。同時に評論という形式の決定的な貧しさを実感しました。原理的にはわたしの評論活動というのは、あそこで終わったというように思っているんです。だから以降はあの作品をどうやって小説に書き直すかを考えています。少なくともそのつもりです。やっぱり小説でなきゃ書けないと思ったので、あれはまさしく九〇年代の体験に向き合うということですよね。それをどういうふうに形象化していくのかというのが自分の課題なのでしょう。それが単純に『煉獄回廊』の続編というよりも、同じ質量を持った小説、という意味じゃないかなと思うんですね。
 八十年代はポストモダンが敵だと射程していました。後続世代に何を手渡せるのかという問題は本を書き始めたときからずっと懸案でした。それでわたしには『空中ブランコに乗る子供たち』『エイリアン・ネイションの子供たち』という著書があるわけですが、課題は充分に果たされているとはいえません。あの当時「新人類」などと差別的に話題にされていたポストモダンの若者たちが、今ではもう四十代ですよね。同じ中年という範疇に入っているのですから、隔世の感があります。子供論、若者論という分野で評論家になっても仕方がない。しかしテーマの一端は変わらずに、子供なり若者なりの体験に向き合うことだと思います。
 しかし、どうしても続編というと書いた人間にとっては変に正確でない意識がつきまとうんです。例えば天皇小説として考える、みたいなところですよね。ヒロヒトを殺せというメッセージを伝えるために、曲馬館の芝居の場面をそのまま描いたところがありました。『煉獄回廊』でカットされた部分なんですけれど。さすがにそこは編集者があわてまして、これはあかんよ、このままは無理だよって。言われて気がついたんです。自主規制ではなく、カットしたのは納得づくです。それで気がついたんですけれども、芝居でやったことをそのまま書いても活字で成り立たないんですね。芝居のレベルでやってる天皇批判、あるいはヒロヒトへのおちょくり、ポルノも絡めてですね、そういったものは、芝居の現場ではワハハと笑って成り立つんだけれども、それをこういう芝居があったというので書いてもほとんど無効になる。無効というか、それ以上に活字としては品がないんですよね。品がない世界になってしまう。糞リアリズムでけっこうだと思ってましたが、活字の世界として力を持たない。かえってマイナスに作用してしまうんだと気づきました。ですから、天皇制に関しては未決のこともあるかもしれないけれど、引き続きやるのは正しくないのかなあという感じもしてます。
栗原 それは小説として、という意味ですか。
野崎 そうですね、ええ。
栗原 天皇制を批判するということは天皇をおちょくることではないわけで、それはいま言われたような小説表現上の問題をふまえて、もっと深める必要がありますね。天皇制批判ということは文学においてもけっして終わった問題ではないですから。しかしそれはまた別の機会にということで、今日はここらで終りにしましょう。どうも長時間有難うございました。

60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に  聞き手・栗原幸夫
『文学史を読みかえる6 大転換期 60年代の光芒』 2003.1 インパクト出版会

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