第四回 十月三日 昏睡から醒める
朝八時に意識がもどった。
(「朝八時」は絶対ではない。「意識がもどる」という表現にしても、意味内容はしごく曖昧だ)。
昏睡から醒めても、きっちりと現実に生還したということではない。これ以降の記憶が連続しているわけではない。目がいったん覚めて、また昏睡状態にもどっていくきれぎれの症状だった。現実と接続する意識は気まぐれな発現を示していた。
ナース・ステーションにつながる部屋を仰向けのベッドから眺めていた景色が残っている。この不確かな情景を彩っている感情は、まぎれもない恐怖だ。どこにいるのか、そして何故ここにいるのか、答えがわからないだけではなく、教えてくれる者もそばにいないのだから。「意識がもどった」ことによって事実の復元はよけいに混乱をきわめてくる。あとで聞いたり確かめたりした上での記述に努めるけれど、それが自分の記憶とくいちがっていたりする。くいちがいが苦しい。
まず一点――。意識がもどった時、朝だったのか夜だったのかわからない。外に面していない病室なので窓もなかったから、どちらか知る手がかりがない。長男が枕元にいた。わたしの記憶ではそうなっているだけ。ずっとついていたわけではない。これも記憶が跳んでいるせいで事実そのままには憶えていないのだ。
意識がもどったということは、本人もまわりも、意識がもどったという状態にいかに適応していくかの闘いだったのだと思う。この段階ではまだ完全に昏睡から醒めきったわけではない。自分は倒れたのだという事実をまず受け容れなければいけなかった。受け容れることが殊のほか難しかった。それは現実に直面することへの恐怖だった。
さっそく医師の問診がきた(この日だったのか、午前中だったのか、午後になっていたのか。憶えていないのは当然としても、はっきりと確かめられない)。
確かめないで書くのは、こうした問診が毎日の挨拶みたいに頭に残っていることもあり、その始まりが三日だったとしておくのが無難だからである。
問診はごくかんたんな質問によって構成されている。
1 ここはどこですか
2 今日は何日ですか
3 あなたの名前は
4 あなたの生年月日は
5 あなたの年齢は
6 かんたんな計算をお願いします。100マイナス7はいくつですか。(答えると)そこから更に7をマイナスしてください。(とつづいていく)
それから指一本を目で追わせるなど、見当識のテストがある。
さいしょはすべて答えられなかった。答えられないことに過度に緊張した。そして答えられないことの正当化に腐心する。論理的にはこうだ――。1については、意識を喪ったまま運びこまれたのだから知っているほうがおかしい。知らなくて当たり前。2についても同じだ。回数を重ねるにしたがって、そういう屁理屈を口にしようとするようになった。何回も同じ質問をされて答えをきいた後だから、それが頭に入っていないのもおかしいのだが、そこのあたりは棚にあげていた。ところが屁理屈をこねようとしたさいに、明瞭に言語障害があるのを感じた。言葉を一つひとつ引きずるようにしかしゃべれない。酔っぱらったときの間伸びした口調(単純に「わかりません」と答えておけばごまかせたか?)。普通のしゃべり方ができないのでますます焦る。答えが遠のく。どこにいるのかわからない。日めくりが正確に刻まれていない。――その二点は、たんに落ち着かないというより、恐怖にわたしを追いこんでいった。
3はさらに難問だった。長いあいだ、外に出れば「野崎六助」として存在するように努め、本名のほうをフィクション世界と思うのが習慣だった。本名は嫌悪しているし、すらすらと名乗ることが出来ないのも、わたしの特殊事情としては、自然のことだった。しかし、これは常識的にはおかしい。と、感じるくらいの「理性」は働いている。答えられないことで、答えられないわたしをじっと観察している医師の表情が気になってくる。焦る。そこからつづく質問の答えもスムースに出てこない結果となる。93はすぐに答えられても、そこから更に7マイナスの答えがわからない。
これは立派な病人状態だったんだろう。
この日のうちに、腰からの髄液接出、CT、MRIの検査がある。MRIは、ガントリーと呼ばれる機械本体の狭いトンネルのようなところに頭からすっぽりと上半身を入れて横になっているだけで、二十分くらいで終わる検査だ。カプセルホテルのように見える本体に異常な恐怖を示した。MRIは、脳を横の輪切り状にみるCT(X線断層撮影装置)より精度が高く、CTでは映らない梗塞や腫瘍を発見することができるし、脳をななめ切り、縦切り、など任意の角度でみることができる最新の装置だ。また人体の持つ磁気共鳴を利用しているので、CTのようにX線の影響がない。
腰の真ん中から髄液を取られる方がよっぽど怖く、痛いが、こちらの方は麻酔もあって問題なく運んだ。
大きな大学病院なので、各検査のあいだの待ち時間がけっこうある。一日仕事だった。
to be continued
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