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第一回 前哨戦

第一回 前哨戦

 九月の下旬は、新作の後半をすすめる一方で、ホームページの模様変えにもとりかかっていた。とはいえ思う通りに時間をとれず、全面的なリニューアルにはほど遠い。
 たえず苛立つ、身体が全般的に重く不調、といった月並みな病気の前兆はあった。けれども疲労感が強いというくらいで相手にしてくれる医者はいないだろうし、病院に行く決意にはつながらない。せめてものすくいは九月中の原稿は済ませてあって、持ち越しにはしていなかったこと。三十日の日曜日は、次の日の講義と課題の用意をし、余った時間は小説にあて、日経新聞用の原稿も送っておいた。この原稿の内容で鮮烈に残っているのはトム・クランシーの新作について考えたことだけ。これだって長いこと、どこにどういうかたちで書いたのか思い出せずにいた。この日そんなに無理したという自覚はない。すでに破裂寸前にきていた前日にすぎなかったのだろう。
 戦争にたいする政府の対応に関して感じたのは簡単なことだ。端的にいって、報復への支持を表明した国家はテロの次の標的となる。標的の犠牲は国民が強いられる。それだけのことだ。そしてこの国にはテロ対策などまったくないに等しい。
 小説の執筆が過労につながったのは、ハイペースですすみすぎたからだ。――いわばこれは同語反復、何も説明していない。時間が惜しかった。現実の時間軸っていったい何だろうか。長く仕事すれば当たり前のことに疲れる。けれど肉体が囚われている現実の舞台が与えてくる疲労感など自分が踏みこんでしまったフィクションの世界にとって大した意味を持たないではないか。因果なことというか、創作の世界にずっぽり嵌まってしまった者にとって、目眩もふらつきも幻覚も、それらはかえって通常の現実なのだと思える。
 しかし最終的に悲鳴をあげるのは個人だ。個人のちっぽけな肉体であり、よりいっそうちっぽけでみすぼらしい精神なのだ。人間はやはり個人のちっぽけな檻に囚われている哀れな生き物だ。意識は宇宙の真理に迫る羽ばたきをみせても個人であることに変わりはない。何かわけのわからない言い方になってしまったが、ツケを払うのは快調に執筆をすすめていた野崎六助という「仮想人格」ではなく、別のとてつもなく弱い哀れな五十三歳の男にすぎなかった。彼は熱にうなされながらも、どうして自分がこんな恐ろしい目に合わねばならないのかと、絶えず恨み事に逃げる算段ばかりしていた。それはそうだ。己れの終着がこれほどまでに明瞭に見えることについてだれも感謝の念を抱くことはあるまい。
 いずれにせよ、次の日の何が起こるかは予知できなかった。たとえ予知したとしても、回避するすべなんかなかったのだから同じことだ。それまでの生活ペースを変えなかっただろうし、結果からみればそれは間違いなく、何らかの破局まではずっと続いていったのだから。
 今これを書いている時点では、規則正しい生活を営んでいる。十時に眠りについて六時に目を覚ますという病院生活のリズムはまだ踏襲されているようだ。仕事用の執筆はしていない。刺激の強そうなものは避けているが、読みながら例えば、これは講義に使えそうだというふうに頭がはたらくことまでは禁じていない。要するに、この病状記が進めば今の自宅療養期間も報告の対象となってくるだろうということ。夜早く寝て朝早く目が覚めるという生活を送って、どうやって創作ができるのだろうか、と心配している。物理的な意味でも精神的な意味でもそうだ。双方からみて今の生活リズムは普通の市民生活に最適かもしれないが、妄想を糧として生きる人間には最悪なのではないかと不安を感じている。だがその不安をどうすることもできない。わたしはまだ病気の最中なのだから――。そう言って、何とか自分を納得させるしかないのだ。
 今はこの連載を書いて、書くことによって、病気に最終的な敗北を認めさせてやる。それしかないと思っている。
 ホームページの改造の目玉である連載プランについては、はっきりとつづいている部分もあれば、断絶してしまっているものもある。戦争についての予測はほとんど外れていない。ただそれはあまりに鈍く、毎日のテレビニュースでしか進行していないかのような現実感しかもたらさないだけだ。事実が衝撃を持たないのではなく、こちらの感性が現実から切断されてふわふわ浮遊しているだけだ。
 九月の三十日。この日が特別の日であったということはない。前兆のようなものは何もなかった。明日から大学の後期が始まる、と思って眠りについた。眠りの前の記憶が喪われていたことはなかった。特に印象に残る夢も見ていない。
 しかし翌朝は十一時まで起きられなかった。こんなことは滅多にない。この日で明確に憶えているのは起床時刻だけかもしれない。いよいよ運命の日が始まったのだ。

to be continued

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