『煉獄回廊』削除部分 44章
「ほな、みんな集まる予定はもうないんでっか」
「当分、休みですよ」
正面にすわっている赤木は、その言葉の指示する意味をまるで舌でころがして楽しんでいるようにいった。
稽古場に来て三日目の日だったか、日置高志は、ついに決定的なことを聞かされることになった。場所は大部屋の脇の三畳の間で、他には、清次郎と北川がいるだけだった。二人はほとんどしゃべらず、場は赤木の報告にまかされている流れだ。
天馬団は、のっぴきならない状況に追いこまれ、今は活動休止期間、再開のめどは立っていないという。理由は単純ではなかった。解散の可能性すらある、と語る赤木の口調が他人事みたいなところが不快だった。
かれは赤木のおやじなどから経過を聞かされる破目になったことで後悔しはじめていた。北川がいった「そのうちわかるぜよ」の内実がこれであったにしろ、吹きこまれたのは、ずいぶんと主観的な報告だった。赤木によれば、危機を持ちこんだのは、すべて鬼首の問題提起だ。かんじんの鬼首が提起した内容を説明する前に、赤木がそれを取るに足りない空論としか捉えていないことは明らかだった。赤木は鬼首を恐れ嫌っていることを隠さなかったが、それも、本人のいないところだから陰口もいえるというふうでしかない。清次郎や北川が黙って聞いているのが不思議だった。意見を同じにしているはずはないけれど、反論しない。どちらも、いかにも気まずげに沈黙を守ったままだ。
――鬼首は天馬団をつぶそうとしてるのさ。
――芝居やっていくのに鬼首みたいな論理はいらんよ。 言葉の端ににじむのは、どれも一筋縄ではいかない赤木の主観であり、日置高志は、自分がこの男を人格まるごと嫌悪していることに気づいた。鬼首を恐れ忌避しようとする赤木の内面が伝播したように、かれは赤木に悪寒をおぼえ、その言葉を踏みにじってやりたくなった。赤木の存在が、年齢のゆえをもって、みんなから特別扱いされていることはよくわかっていた。だけどただそれだけのことじゃないのか、この男の値打ちは?
赤木は、劇団メンバーの親の年齢に属していて、サラリーマン生活を二十年以上勤めた上で転身してきた。妻子ある市民生活からドロップ・アウトした不良中年の異色さで、だれからも一目置かれていたというところだ。それは要するに、赤木個人の人格のレベルとはべつの問題だ、とかれは想いはじめていた。鬼首への批判は言葉つきこそ辛辣だったが、しょせん上っ面だけの皮肉にすぎず、職場の上司をやりだまにあげるような意趣だけはたっぷり含んでいた。貧しいだけの非難のはしに洩れ出る赤木という初老の男の貧しさを聞かされることに、だんだんと耐えられなくなったのだ。
こいつ、おれを初心者と見くびって、言いくるめようとしてるのか。どっこい、そちらがおそろしく公平を欠いていることくらいはわかるさ。解散の可能性すらあるという観測を、何やら愉しげに吹聴する屈折にたいしてうなずいてやることは不可能だった。旅公演の過程でずいぶん集まってきた者がいたが、議論が分裂していくのについていけず、どんどん去ってしまったという。十文はいわば、居残りのもっとも悲惨なケースで、遅れて京都から到着した日置高志の場合も、時期を逸した例の最後尾に分類されるのだろう。はっきりいわなくても、赤木の皮肉な口に乗れば、おれは事が終わりかけているときに関わりを求めてきた間抜け扱いされるに決まっている。その口調に憐みや嘲りが混じっていると感じられてならなかった。かれ自身の不公平さが、赤木をおとしめているという事実に思いあたる余裕を、かれはとうてい持ちえなかったのだ。
「結局、何が問題やいうんですか」
「芝居か闘争か。二者択一を突きつけて恫喝かけてくるんだよ、鬼首は」
「そら、さっきから聞いてま」
おまえがどう思ってるのか訊いてるんだよ、おっさん、と口に出しかけて、かれはためらった。自分に答えがあったら糾問などするものか。いくら己れのなかを浚えても答えなど見つからないから、赤木は虚勢を張るように、鬼首を非難することしかできないのかもしれない。それは清次郎と北川の不自然ともみえる沈黙にも関わっているような気がする。
たしかに天馬団は劇中で、天皇を殺せと叫び、火炎瓶を車に叩きつけた。それらの行為は虚構のなかでいったんは完結し、現実の回路には結合していかなかった。そこで得られたカタルシスは反動的なものなのだろうか。現実の闘争をフィクションに解消して、自己満足し、闘争しないことのアリバイに代えることにつながるのだろうか。だとすれば、かれのように芝居によって電撃にうたれてしまった者はどうなる?
「二者択一て……。そんなもんで済まんから天馬団の芝居があったんちゃいますの」
うまくいえないことが苛立たしかった。赤木は余裕をくずさずに答えた。
「だから鬼首先生は芝居の季節は終わったというんだよ。突きつけられたらだれも答えられない。芝居でやったことに責任持つんなら、現実レベルで闘えとアジってるわけ。かれが間違ってるなんてだれもいえないよ。とくに露人なんか自分の世界を鬼首に代弁してもらってたんだから何もいえないでしょ」
それは違うだろ、赤木さん、と清次郎がはじめて口をひらいた。しかし赤木は軽くいなしてしまう。
「違わないよ。どうしてさ。やっこさんのいってることはそれでしょ。無理難題を突きつけて、おれは偉いんだとナルシズムにひたってるんですよ」
悪意をむきだしにした放言だった。
活動休止?
更生をかたく誓った十文を酒に戻らせてしまったのも、松吉に災難を与えた酒席の大分裂も、ここに発していたというわけだ。それでは……おれは、いったい、どうしたらいいというのか。
「わし、もう寝ますわ」
日置高志は言い捨てると、居室になっている洋ダンスの部屋に行った。入口は迂回するが、ベニア板一枚で仕切られた隣に位置している部屋だった。ぼそぼそと低い声の会話が聞こえる。三人がそれぞれの場所に引きあげるのを待った。
かれは、充分に時間を置いてから、清次郎の部屋を訪ねた。
「ちょっとええやろか」
かれの訪れを、予期していたように清次郎は、あがれよ、といった。
「ハウリン・ウルフでも聴かしてもらえへんやろか」 ブラック・ブルースをとくに聴きたかったのではない。むしろ反対でブルージーにはなりたくなかったのだけれど、いきなり用向きの核心に入ることが難しくて、口実をつくったのだ。清次郎は、それを察してか、相好をくずした。
「嬉しいなぁ。あんたはいい耳してるよ。だけどおれはビリー・ホリデイで決めたい夜なんだな」
「ええですよ。『トラヴェリン・ライト』が、よろしなぁ」
けれども、清次郎の持っているアルバムにはかれの望みの曲が入っていなかった。二人は無言で、A面とB面を、「月に願いを」から「ラヴレス・ラヴ」まで、たっぷりと聴いた。
「次、何いく。ニーナ・シモンはどうだ」
「ええですわ。わし少し話ししたいんや」
「おっさんのいってることだったら気にしないほうがいいぞ。壊れた水道だよ。言いっ放しで、本人は何も考えてないよ」
清次郎が先回りするようにいったが、かれは大きく首を振った。
「いや、わしはあんたの芝居が好きなんですわ。いう機会なかったけど、そう思うてたんや。みんな主役を張るみたいな根性でそれぞれ強烈やよね。けどあんたの芝居が、いっちゃん何かこう、自分いうもんを自然と解放できてたと感じたんやわ」
清次郎は少し戸惑ったようにいった。おれは辺境なんだよな、と。
「偏狭?」
「あほか。マージナルの辺境だよ。マージナルなんだ、おれは。マージナル・マン。自然環境というのは中心なんてないからな」
かれはビリー・ホリデイのフレーズをまねていった。 「イフ・ユー・ワー・マイン、アイクド・ドゥ・サッチ・ワンダフル・スィング。でっか」
「ちょっと違うんだな。あんたの感性はつかみにくいな」
「芝居て、いったいなんですねん」
「難しいこと訊くなよ。自分を最高に解き放った状態に高めることだろ?」
「苦しいんやろな」
「いやいや。むっちゃ楽しいわ。ま、苦しむやつもおるけど」
「わしらは病院で芝居しようかみたいな話になって、わしらやったのはやっぱりあれやな。なんで芝居するかなんて突き詰めて考えへんかったわけやね」
「おれらだってそうだよ」
「ほんまに?」
「いつも旅から帰ってきてからみんなで突っこんで考えるんだよ。それでも結構うまく捉えきらんで、次のシーズンが始まると、やっぱりてめえには芝居しかない、みたいな感じで一列に並んじゃうんだよ。いつも自分をとことん浚えて正体をつきつめようとはするんだな。そのうち身体がうずき出すから、答えが出ようと出なかろうと、気がついたら芝居やってるよ。それがいちばん自然でもあるわけでよ。だから結局、何も考えてないってことになるわな」
「だって最初からつきつめようとしない者だっておるんやろ」
清次郎は、遠くを見るような目つきになって、ぽつんといった。
「おれももうやめようかと思っとる」
「なんでや」
痛みのような感覚にかれは襲われた。
「だからよう。ものすごくやりたいときにやるのが芝居だろ。一回いっかいにぜんぶ投げこんで燃焼しつくしてきた。あとはないところまでやって、それでも、いつの間にか何か湧いてきたんだよな。今までってそうだった。それが今回はないんだよな。出て来ないんだ。惰性っちゅうか、習慣でも、芝居なんてできるけどな。よその劇団ならそうするだろなと思うよ。おれらのやり方じゃないからな。最高のものが出せんのがみえみえなら、やめてもいいかなとか思うよ。鬼やんはやり尽くしたといってる。よくわかるんだよ、それ」
「わしは病院でほんまに芝居やりたい思ったんや。役者やる覚悟なんてない。患者ばっかりで、てんでばらばらに勝手なこと考えてたわ。不純やったやろか」
「不純でいいよ。気にすることないよ」
「ほんまにあんた、やめるんかい」
「だからぁ。やりたいことなくなったら、やめようや。それを今いってるんだよな。他人のことは知らんよ。次やりたいことが見つかったやつは、そこに行けばいい。鬼やんはバクダンやりたいんだろう。だけどマル天だっていろんな人間の集まりだから。政治闘争のことまではっきり呈示できんじゃないか。ある程度はぼやかしておかないと、どっから水が洩れるかわからん。鬼やん個人の気持ちはもう固まってるはずだけど、みんなの前でそれを明確にするわけにもいかん。そういうところで悩んでるだと思うよ」
またしても、かれは、取り残されたという想いに襲われた。
こいつらはやりおおせたといっている。清次郎の言ならすべて信じられると思った。ゆっくりと話をかわすのはほとんど初めてといってもよかったが、芝居の印象から受けた純粋さは、日常に戻ってもほとんど変わらない。舞台から降りても、本体は降りられないのだ。過度の純粋さは、実人生のなかで他人をしばしば戸惑わせるが、己れの純粋さについてもっとも戸惑っているのは、この男自身ではないだろうか。役者をやらずには生きていけないと思わせるガラスのような脆さに頓着することもなく、あっさりと役者を捨てるといっている。捨てたあとに何が残るのか、燃えつきた残骸なのか、恐怖を伴うだろう予測にも、この男はよく耐えているのだろうか。かれには想像がつかない。
日置高志は、あらためて目の前の男を観察せずにはおれなかった。大男の多い劇団のメンバーのなかでもひときわ大きく膂力も抜きん出ている。顎も頬骨もごつく張り出した顔、狭い額の上に剛毛がびっしりと密生している。少し猫背気味にすわっている身体からは動物的な精気が発されている。それでいて清次郎の心は小鳥のようにか弱く外界にさらされている。そして当人はそんな自分の脆さには気づこうともしていない。
この男が、鬼首は燃焼し尽くしたというのなら、じっさいにもそれが真実なのだと思う。真っ白な灰になるところまで到達した男にとって、次の芝居を消化しなければならないという要請など、まるで意味をなさないことなのだろう。日置高志が見とどけたもの、それこそは、一回きりに燃えつきることを目ざした恐ろしい輝きだったのではないか。
二者択一の難問によって、分裂の危機に瀕しているなどという分析は、唾棄すべき戯言だ。
「鬼首さんは、ずっとテロリストの役ばっかりやってきたんかな」
「そう、やつの理想は、朴烈や難波大助、今度の芝居は磯部淺一なんかも入っている。磯部は二・二六の右翼の将校だけど……。芝居観てるからわかるだろうけど、図式が先行してるんじゃない。鬼やんの感性をぎりぎりにしぼって、ぐわーんと引き伸ばすと、行き着くところがあって、それがテロリストの役に結晶するんだな。行き着くてっぺんを走破してしまったら、その先には何があるんだろう。おれは鬼やんではないから、わからんけど。もう芝居じゃないことは、はっきりしとるだろ」
「もう何も残ってないとこまで行ったと?」
「行ったんじゃなくてよ。いつもその心意気でやってきたんだよ。果てまで行ったつもりで旅公演が終わる。ところが東京にもどってきて金稼ぐために働いたりしてると、またやりたいことがどんどこ湧いてきたんだよな。がっかりするよ。なんだ、大したところまで行ってなかったんだなってわかるもん、そのときに」
「わし、こないだの芝居観せてもろたときに、最後のフィナーレに白い馬が走っていくようなまぼろしを見たんですわ」
「芝居で白い馬を使ったことがあったよ。大変だったよな。馬っていう動物は芝居のために生きてるわけじゃないもんな」
「ちゃうねん。まぼろしをよう見てたんや。わしは西部講堂の前でこそ、ふさわしい幻影があると思うとった。それが天馬団やったわけやないか」
「わかったぞ。わしらはまぼろしの馬を走らした使者だったんだ」
「そういうことやろ。清次郎はん、是非とも聞いてもらいたいことがあんねん」
「おう、聞かしてよ」
「わしは、芝居か闘争かなんて、糞の戯言や思うとる」 「だから、それは気にすんなよ」
「いうていいやろか」
「ああ、いいかけたことは最後までいえよ」
「わしはあんたらが芝居んなかで、天皇陛下万歳をやっても、喜んでついてきたと思ってるんや」
清次郎は軽く失望したような顔つきになった。
「なんだ。そんなことか」
「殺せ、でも、万歳、でも、いっしょなんやね」
「はは、右翼じゃあるまいし、陛下万歳をわざわざ芝居でやらんよ」
「その通りやね。逆もあるやないか。左翼だからいうて、何を好んで、天皇殺せ、みたいな芝居やらなあきませんねん。言葉は付録やろう? 要は、天スケがどんだけわれわれニッポン人の心の奥底の迷路にデンとすわっとるか。そういうことをだれにでもわかるように暴いてみせた芝居やったいうことです。わしらの肉体のすみずみにまで天皇制の条件反射みたいなものがはりめぐらされとる。わしらはほんとうは亡霊かくぐつ人形みたいなもんやいうことが『オペラ』の芝居観てようわかりましたで」
「そうだよ。素敵な分析するじゃない。でも、そういうことは今あまりいわないほうがいいと思うよ」
清次郎の分別くさい反応につき当たって、もう手遅れなのかもしれない、という可能性を想い、胸が重くふさいだ。一回きりの夢だったから、あんなにも狂おしかったのではないか。日置高志が見とどけたのは、かれら天馬団がまさしく銀色の白馬として雄々しく燃えつきていった喪われた残像だったのかもしれない。燃えつきた像だからこそ、あんなにも美しかったのだ。そして今、自分の眼前には、白い灰がうずたかく積もっているのみなのではないか。
おれはいつも出遅れる……。
活動を停止した天馬団に自分の居場所はあるか。もちろん否だ。居場所がなければどうすればいい?
アル中で肝硬変の片岡は、立派な芸名まで飾って晴れて稽古場を訪ねて来たが、居場所がなかったので、ふたたび病人にもどってしまった。同じようにおれはまたあの誠心会病院に帰って行かねばならないのか。藤堂院長は慈父のごとき優しげなまなざしで、ぼちぼちやりいな、といってくれるはずだ。おれはその言葉が嬉しくて、へえ、おおきに、と答えるはずだ。へえ、おおきに。
日置高志は、不覚にも、涙を落としそうになって、くちびるを思い切り噛んだ。
赤木の、当分、活動は中止だという観測は外れて、次の週には招集がかかり、みんなが稽古場に集まった。
芝居で記憶しているやつの何人かは姿を見せなかった。新しく加わったメンバーもいるらしく、半数が見知らぬ人間だった。
露人が司会役で、まず日置高志を紹介して、京都の誠心会病院で患者ばかりの自主的な舞台を公演にまで立ちあげた中心メンバーの多羅尾伴内です、といった。
少し事実を好意的に粉飾しすぎていると思ったが、単純に誇らしかった。次にはあいさつを求められた。決意表明の演説でもしてやろうと思っていたのは、まだ病院にいたころのこと。稽古場に来てからは、後ろ向きの退却気分に落ち込むばかりで、おおかたの草稿の言葉は凍りついてしまっていた。
「……多羅尾伴内いいます。真面目にいうて、わしの仕事はしばらく病院患者やったんです。病院のことはあまりいいとうありまっせん。正直なところ、ええ病院なんで、ときどきホームシックが出ます。わしの家てないんですわ。女もいてません。病院が長いことわしの人生そのものやったわけです。娑婆がええとか思ったことなかったですから」
かれは少し考えてからつづけた。
――わしはこれでも、今までわりとものは考えてきました。天皇をなんたらせい、いうのんも言葉ではわかります。天皇が戦争責任者やいう議論も勉強したことはあります。そやけど、わしんなかには個人的に、天皇への殺意はありません。芝居観せてもうてから、いろいろ考えました。わしはずれた人間です。それでも天馬団のなかに居場所見つけたと思たんです。わしとおんなしずれ方しとるやつらがおると思えたんです。そやから、お仲間に入れてもらえると感じました。ほんまのとこ、芝居観てから夢をよう見ます。そんなかでわしは芝居のなかの亡霊みたいな人物になって振る舞ってるんですわ。わしのけったいな夢のなかに、あの芝居の世界につながる近道の通路があるんかもしれません。わしはキチガイは治るもんとは思うてまへん。いや、もっとキチガイになることしか道はないと信じてます。多羅尾伴内をよろしうに……。
拍手と祝福の声があがった。
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