『煉獄回廊』削除部分 42章
飲み直しはじめると松吉は、半分ふさがっていた目もふつうの状態にもどり、にわかにしゃきっとしてきた。素面のときよりも毅然としている様子で、しかし、唐突に脈絡のない言葉を投げつけて戸惑わせる、例のしゃべり方は相変わらずだった。
「鴻巣まで帰らなあかんねん」
「こうのす、てなんじゃい」
「鴻巣やんけ」
「だれが帰るんや」
「わしに決まっとるやろ」
「今日か」
「早いこと帰らんなん」
「鴻巣てどこやねん」
日置高志は、まったく知らなかったが、隣の県にある。東京で生まれ育ったといっても子供のころだけだから、かれには首都圏の地理感がほとんど欠けていた。電車を乗り継いで、二時間近くの道のりになるらしい。松吉の個人的な生活のことなどまるきり聞いたことがなかった。東京の西の外れからいったんターミナル駅に出て、またべつの線に乗ってしばらくかかる場所だという。そんなところに生活の基盤を置いていたとは初耳だった。かれの知っている松吉は、寄せ場のベッドハウスで寝泊まりしては日雇いの仕事に出る単身者だったはずだ。それ以外の面を聞くのは初めてだ。
「帰らなあかんねん」
「遠いんやな。もう一杯ええやろ。もう一杯飲んで別れようや」
「あかんわ」
「ええやないけ」
「あかん。あんまり飲むと、臭いいうて叱られる」
「だれに叱られるねん」
「恵美ちゃんや」
「恵美ちゃんてだれじゃ」
「看護婦さんや」
「看護してもうとんのか、おまえ」
「赤ん坊も生まれたし」
松吉は赤ん坊といったとき、しごく複雑な眼になって視線を逸らした。これまで見せたことのない入り組んだ感情を隠した目つきだった。強いていえば後ろめたいような、万引きをして捕まった子供のようなバツの悪さをひめた眼。しかし奥にはもっと測り知れない哀しみがかたまっていて、本人ですらその扱いに困惑しているふうだった。隠したいのとさらけ出したいのと、欲求がぶつかり合って、自分でもどうしたらいいのかわからないのかもしれない。
日置高志は、単純に驚いた。のけぞって頓狂な声を出した。
「赤ん坊やて?」
「女の子や」
「いつ生まれてん」
「三ヵ月や」
こいつ、女と所帯を持ったといっているのだと、ようやくかれは悟った。話が呑みこみにくい。年はたしか同い年だった。それは女がいて子供が生まれることに何の不思議もない。けれどこの男は、およそ人並みの家庭生活などとはかけ離れている。もっとも、病院仲間にしろ劇団のメンバーにしろ、かれの知っている者にふつうの日常におさまるような人間は一人もいなかったが、とくに松吉はそうした典型に属していたはずだ。
なお聞くと、天馬団でも、子供の生まれている者はすでに二人いるということだった。松吉で三人目だ。つゆほどその事実を疑う気にはならなかった。
「三ヵ月か」
「そやし、酒ばっかし飲んでたらあかんのや」
「電車長いこと乗んのやろ。乗ってるあいだに醒めるやないか」
「あかん。臭い、いわれる」
「理解のない嫁はんやな」
「ちゃうねん。いちど酔って寝てて、寝返りうったとき、足でつぶしそうになったんや。こんなに小さいやろ、赤ん坊て。由美ちゃん、いうねん」
「ほんまかいや」
「それから横に寝さしてくれへん」
あまり実像のわかない話だった。しかし松吉のものいいは妙になまなましく、疑いをはさむ余地はなかった。その上、涙すら浮かべている顔には、自責の念がありありとみえていた。
「ほんまにもう一杯ええのんか。おごりやで。わしは飲むさかいな」
「ええ」
「バチ当たったみたいな顔すなや。赤ん坊、窒息させたわけやないやろ」
「もうちっとで危なかったんや」
そういうと、驚いたことに、松吉は大粒の涙をぽたぽたとテーブルに落とした。
「ま、大事にしいや」
「わしは子育てに向いてない、いわれるんや」
「嫁はん、求めるもんがきついんちゃうか」
「失格やて、いわれたないから。仕事も真面目に稼いで、酒も慎まんと」
「ほやな」
かれは少しばかり白けて生返事をかえした。家庭を持って子供が生まれたら変節してしまうやつは数知れない。しかしこの男ほど、そんな月並みなコースから外れていると思わせる者はいなかった。
「ほな、悪いね。帰るわ」
「わしも戻るわ」
「稽古場、行くんけ」
「今日からあそこで寝るわ」
日置高志は、ジョッキのホッピーの残りを一息に干した。
ほな、と行きかけて、松吉はまた近くに寄ってきて、勘定書をさしていった。
「この金、人数で割って、みんなに後で請求したらええわ」
そしてその場にいた者の名前をすらすら順にあげた。十二人いた。理屈では、松吉自身も頭数に入るはずなのに、まるきりそのことは度外視している。請求して返してもらえるかどうかは心許なかったが、かれは、なんとか名前を頭に入れようと努めた。名簿を告げ終えて、松吉はぱたぱたというスリッパの音を残して、去っていった。
稽古場にもどった日置高志は、どこかで人のいる気配と熱気を感じて安堵した。
声をかけると裏手のほうから答えがあった。真っ暗闇に近い土間をすり足で歩いて裏にまわる。手前の部屋から灯りがもれているのが見えた。引き戸をあけて、一人の男がこたつに入っているのをたしかめた。知らない男だった。
相手のほうから三つ指つくようにして、にこにこしながら自己紹介してきた。
「わたし、寿のほうでお世話になりました男ですに。地下タビ十文と発します。地下タビのタビは旅ですに。どうぞよろしう頼んます」
寿町は横浜にある寄せ場で、天馬団が芝居テントを張ったことがあると聞いた。寿に根を張っていた労務者の一人なのだろう。年は三十代なかばというところか。顔がてらてらと赤いのは酒気のせいとしても、前歯が二本欠けているのが愛嬌あるように見えた。
「コトブキからでっか。ええ芸名つけはりましたな」 「へえ、にいさんは?」
「わし京都からやってきました。多羅尾伴内、いいます」
ずっと前からの知己であるような気安さをおぼえる。日置高志は、あいさつして、何気なくこたつの掛け物をはぐった。寒かったのではなく、相手が入っているので何となく合わせようと身体が動いただけだ。しかし掛け物をめくったとたんに驚愕した。なかから吐き出されてきた悪臭に直撃されて、かれは思わずくらくらとなった。外気はまだそれほど寒くないのに、赤外線ヒーターが赤々と灯ったこたつは苦しいほどの熱気を放っている。そして熱によって蒸れた臭気が想像を絶するすさまじさで襲いかかってきたのだ。長時間、靴のなかで発酵したアブラ足の臭いのエキスが凝縮され、こたつの熱によってさらにパワーを増しただけではない。明らかにもっとべつの悪臭が足の臭いをはるかに凌駕してこもっていた。
便所の臭いだった。
息を詰めても遅かった。胃の底から嘔吐感が芋虫のように這いあがってくるのを必死でこらえた。あわててかれは、掛け物を元にもどして、なかの空気が洩れ出ないように整えた。
卓の上には、焼酎の四合瓶があって半分は減っていた。十文は茶碗にそれを注いですすめてくれる。
「地下旅はん。寒いんでっか」
「へえ、外は寒いですよって、暖まってください」
かれは焦っていった。
「わしはええです。こたつには入らんで。ここで結構ですわ」
二人は茶碗を合わせて、あらためてよろしくとあいさつした。
戸籍名は片岡だといって、十文は、問わず語りに半生をしゃべった。中卒でコックになり、外国航路の船舶つき調理人として長く働いたという。酒と女の失敗がもとで船を降ろされることになった。そのあと寿に居ついて、主に港湾関係の荷役などをやっていた。たまたま天馬団の芝居を観て、天啓にうたれた。
「ほんとぶちのめされましたに。学がなくて、うまいことはいえんけど。もうでっかい手で背中、ドーン、ドーンと、はっぱたかれたような。わたし三十年の人生のたまりにたまった垢をガーッと落とされたみたいに、ほんとに生まれ変わった気になりました」
「ようわかりま。すごい芝居やよね」
「芝居だけとは違うんですに。世の中の不正と闘うんだという、こうね、闘争心を盛りたててくれます。闘争心をこう。んーちゅう。わたしバカな男で、学生さんたちが三里塚反対たらいって石投げたり火炎瓶ほうったりしてきたことなんかとは、まるきり無縁で過ごしてきましたに。けどこれからは闘わないと駄目だと、目を開かれました。うろこから目が落ちました。天馬団の人にも。児雷也の先生にも、こんこんといわれました。芝居やって闘争します。わたし、これから」
十文はだいたいそんなことを、繰り返しくりかえしいった。さてはこいつも児雷也の「あんた、芝居やるために生まれてきたんとちゃうか」に当てられたのだ。様子ではすっかり真に受けてしまっているみたいだ。
論理的にはそれほど飛躍はないが、言葉のあいだが濁って、語尾が長くなる。急速にこの男のなかで酩酊が進行していくのがわかった。日置高志もいいかげんまわってきていたが、崩れるのは相手が先のようだ。上体がゆらゆらと傾いてきて、舌ももつれがちになってくる。
十文は、ふと自分の手にした茶碗に気づいて右腕をあげて口に近づけようとするのだが、腕があがらなくなっている。かれはそこまで酔った経験がなかったので、つい相手をじっくりと観察してしまった。不審そうに十文は自分の右腕を見ていたが、やがて意を決したように上半身をじょじょに傾けはじめた。上体のほうを、動こうとしない茶碗に近づける方針に変えたわけだ。試みに成功して、今にも茶碗の透明な焼酎に口が付こうとするばかりになったとき、ロックが外れたように手のなかの茶碗が落ちて転がった。小さな音がして、中味は卓と掛け物のところにこぼれた。十文は、落ちてこぼれた酒に、自分の行く末を哀れむようなまなざしを向けて、自嘲の笑みとともにうなずいた。
力のない右手が茶碗を拾おうとするが、うまくいかない。左手がゆらゆらと瓶を探して宙をさまよった。新しい盃を注ごうとする本能だけは健在らしい。目が見えているのかどうかもわからない。
「もうええのちゃいまっか」
「闘争だ。闘争だよ。おれは闘ったるで」
「そら、もう聞いたで、先輩」
「何かあったら呼んでくれよな、必ず。どんなことがあっても行くよ。裏切らないよ。兵隊で使ってくれよ。おれは、おれは優秀だぜ。おれが優秀だってことはみんな知ってるよ。だれにだって聞いてくれ。ああ、あいつは優秀だって、みんな、そういうから……」
言葉がぷつんと途切れる。首がぐらりと動いた。
日置高志は相手の横面を軽く張った。
「もうつぶれんのけ。おっさん。まだ早いで」
十文は一瞬きょとんとして、焦点の合わない目でこちらを見すかした。
「何か、あったら、呼んで、くれよな。おれは……」 首はほとんど上体につかんばかりだ。かれはさきほどの臭気を思い出してびくんとした。あの臭い。アルコール混じりの小便の強烈な香りだ。ひょっとしてこの男は……。病院でもおむつを当てた患者を目にしたことはある。動きまわる排泄物のすさまじい臭いは思い出すのも嫌だった。
「先輩、ちょっと申しあげにくいんですが」
顔が少し上向いた。
「ああ、呼んでくれよな」
「先にションベンしてきよらんですか」
「くるしゅうない。よきに……」
十文の首はふたたびがくりと垂れかかる。
日置高志は、その脇に手を入れて力をこめて立たせた。 「呼んでからじゃ遅いんじゃい」
「でも、呼んで、くれよな」
「呼んだってんのやから、来んかい」
一歩踏みだそうとしてよろめいた。上背は同じくらいだが、体重はずっと上のようだ。いっしょに倒れこまないために足を踏んばる必要があった。
「聞いてくれ。……おれは優秀だぜ」
「ああ、わかったわい」
「呼んでくれよな。……呼んでくれ」
「呼んだるわい。なんぼでも。その前にションベンせんかい」
引き戸をあけて外に出た。草むらを数歩、歩く。どれくらい緊急の状態なのかはわからない。十文は歩きながら寝ているかのような安らかな顔つきで目をつぶっている。自分からは何の動作も起こす気配はなかった。
「ションベンや。おっさん」
「わしは、優秀な、兵隊だぜ」
ズボンのチャックをおろしてやった。それだけで済まないのは承知だった。コックは窓をあけてやれば自動的にとびだすようにはできていない。十文の上体はぐらぐら揺れ、腕は波間を漂っているように宙空を舞っていた。自分の中枢の器官であれ何であれ、つまみ出す動作などはとうていできそうもない。日置高志は、自らを励まして、下着も何もかもいっしょくたにしてズボンを引き降ろした。猛烈な異臭が下着やズボンや股ぐらから湯気とともに立ちのぼってくる。
下半身をむきだしにするだけでは、まだ充分ではない。十文のコックはこたつの熱でふやけたタロ芋のように横っちょを向いているだけだった。しもたなあ、わりばしでも持ってくるんやったわ。低い声でつぶやいたが、かれは仕方なく自分の指で男の道具をつまんで斜め前方にさしだしてやった。なんでこいつのチンポつまんだらなあかんねん。病気でふせっていた自分の親父にすら数回しかしなかった行為だ。
「さ、はよせんかい。シッシせんかい」
十文は幼児にもどっていた。
「シッシか……」
「さ、するんや」
ちょろちょろと先から出てきた。勢いを増して草むらにしぶきがあがった。かれは息を止めて、液体の行方を見ることに専念する。
「いい気持ち……。呼んでくれよな」
「ああ呼んだるで」
「革命のときは働かせてくれよ。おれは捨て石でいいんだ」
「も、出たか。すっかり出たか」
日置高志は、十文のコックのなかほどをつかんで、ぷるぷるとしずくを振り切った。指にかかるが、構っていられない。そして下着もズボンも元通りにはかせてやって、部屋にもどった。倒れるようにしてこたつに入るなり、十文はいびきをかき始めた。いびきは次第に盛大になっていく。こいつどれだけ飲んだのか。死よりも深い眠りがあるとすれば、そこに招かれているのだろう。安らぎとほど遠いことはよく知っていた。でなければ、こんなにやかましいいびきをかくはずがない。醒めているとき以上に、この男は、騒音と怒号のなかに身を焼き焦がされているのだ。
表からだれかが帰ってくる物音がした。
戸をあけて顔を見せたのは、清次郎と北川だった。清次郎は天才青年作家の役をやった役者、北川は芝居には出ずにテントの設営などに力をふるった男だった。
「伴内か」
「おう」
北川が、寝ている十文を見て、叫ぶようにいった。
「こいつに酒飲ましたんか」
日置高志は曖昧にうなずいた。飲んでいることは隠せもしない。何が問題なのか理解できなかった。
「おまえか。おまえが飲ましたんか」
北川は小さな目に怒りをともして、かれに詰め寄った。胸ぐらをつかむや、すさまじい力でねじりあげてくる。右腕一本だけで、かれの身体は畳から吊りあげられてしまう。握りしめた拳はグローブのようにでかかった。
「こいつに酒飲ましたらあかんのぜ。飲ましたらもう、こいつ死ぬんや」
横から清次郎がささやくようにいった。
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