更新日記2007.02.01 再審『闇の奥』
『闇の奥』の新訳を、これは、ぜひとも読まねばなるまい。これは、近ごろ流行の名作新訳ブームとは違うはず、と思っていたところ。同訳者による『「闇の奥」の奥 コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』(三交社)が出た。
どこかで目にした著者だと思ったら、一昔前、『アメリカ・インディアン悲史』で印象に残っていた人だった。『北米探偵小説論』の記述のために、ネイティヴ・アメリカンの参考書を追っていたときに出会った。専門外の研究者が何故、という余計な興味もついつい生じて、本もまだ手元にある。
今回の、コンラッド読み直しの労作もまたまた驚きだ。
ジョセフ・コンラッドのようなメロドラマ作家がまだ命脈を保っているのは、ほとんど自分でも何を書いているのか定かでないような独特の蒙昧さが、多義的な読みの嗜好にマッチするからではないのか。と、そんな偏見すら表明したくなるけれど、それでもやはり『闇の奥』が二十世紀を縦断する難物であることは改変しようがない。
帝国主義者の残虐なパトスの振幅をうまく掘り当てた一節が『闇の奥』にあって、それを『北米探偵小説論』に引用するさい、原文からの試訳を試みたのだが、いかに苦労しても意味の通る日本語にならず、数ヶ月のたうちまわったあげく諦めた経緯がある。仕方なく、引用は、岩波文庫版の既訳を使わせてもらった。既存の訳に違和感は大きいのだが、原文に歯が立たないわけで。
同じ文庫の短編集にしても「コンラッド作品には多種多様な読みがあって当然」などとユルイことを書いている翻訳者には、いささか閉口する。
「エイミー・フォスター」なんかでも、映画化作品『輝きの海』は、原作の説明不足を相当に補ってきちんとしたドラマに仕上げられている。レイチェル・ワイズはミス・キャストだったが。欠落(というか脱落)を埋める作業もコンラッドのテキストにたいしては必要なのだろう。
というわけで、この機会に、厄年ついでに(関係ないか)、新訳によって、『闇の奥』への再挑戦を果たしたいのだが……。
著者の藤永茂は関連問題を詳細に論ずるブログも公開している。ちょっと覗いてみたが、これもかなりの読みデがあるようだ。うーむ、時間がぬあい。
アレを片づけ、コレを片づけ……。その後には、必ず、と決意だけでもここに。
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