激戦の日本読書新聞など 1
1984.8.20
新聞形式のブックレヴュー誌のなかでいちばんの老舗だった日本読書新聞。その四十年にわたる軌跡がどうであったにしろ、後期に刻印されているのは、まぎれもなく文化的党派闘争の戦跡だ。
たまたま一宿一飯のワラジを脱ぐことになって、旗持ちをやった紙面の一つがこれだ。
一冊目の本はけっこうな反響を呼んだのだが、そのうち最も派手なのがこれだった。銀座を歩いていて四丁目の今はなき近藤書店の入口の脇の雑誌コーナーで、この下品な見出しを見かけてびっくりした。これはオレの本のことか。
さすが左翼の「東スポ」だと納得した。
本を出せば、さまざまな誤解にもさらされる。なかでも平岡亜流とみなされたことは心外だった。平井玄などは平岡批判をきっちりやることによって自分の足元を固めようとしていたが、わたしはそんな必要は少しも感じていなかった。平岡さん
との異質さは、わたしのなかでは明瞭だった。影響圏から自分を引き離すのと、批判を確定させるのとは別の作業だ。
ギャラは最低ランクだったが、きちんと貰っていた。一枚千円だから、手取りは九百円だ。こういうふうに書くのは、「読新」には党派性の証というのか、内部的な原稿料支払いの基準みたいなものがあったからだ。Aは専業の文筆家で、だいたい極貧生活をしている。Bは兼業ライターで、やはり貧乏している。Cは大学教授などで、比較的余裕のある経済生活の人。
三つのカテゴリ分けがあり、Aは優先的に支払われるが、Cはだいたい「払わない慣例」になるらしい。Bは微妙なところで、こちらの生活レベルがわかれば、スムースに対応してくれる。ただ付き合い方がうまくなく、貰いそこねていた人はいるのかもしれない。
わたしの場合は明らかにBだったから、最後の一回を除いて(これは後の話)取りはぐれはなかった。吉本隆明が「請求しないかぎり原稿料も払わない」と非難しているのは、このあたりの事情をさして言っているわけだ。
党派闘争の一つのハイライトは対吉本の論戦だった。吉本の『マス・イメージ論』との対決が、紙面の左側に予告されているとおり、次の号から開始された。そのトップバッターがわたしというわけだった。
Share this content:
コメントを送信