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更新日記2005.03.23

更新日記2005.03.23

2005年03月23日 虫太郎にはまった

 必要があって少しだけ小栗虫太郎を読み返していたら、さあ困ったぞ。
今まで気づかないで通り過ぎてきた虫太郎の強烈な宇宙性に突き当たってしまった。没落商人のディレッタントの旦那といったイメージで軽んじていたのだが。
一行一行にユニヴァーサルがある。世界への不同調がある。思想のコアがある。
何故これまで素通りしてきたのだろう?
中学一年のころ、御陵の国道沿いの貸し本屋でハヤカワ・ポケット・ミステリの『黒死館殺人事件』と『ドグラマグラ』を見つけたときのショックは語りがたい。「こんなものに触れたら一生を誤まるぞ」と直観的に身を引く健全さは、それでも備わっていたらしい。第一、とても読み下せそうもなかった。
しかし。

それから十年も経たないうちに、これら異形の作家たちは騒然たる復活を遂げて、大通りを闊歩するようになったのだ。何という怖ろしいことだ。時代の流れには逆らえない。
しかし虫太郎だけは性に合わなかった。幸いにして(?)一度読んでもわからない。見たこともない漢字が黒々と並ぶページを一瞥するだけでおぞましく、ルビを見るとさらに気味が悪くなる。これはドコの国の言葉なのだぁぁぁぁぁぁ。二度と読もうという気にはならなかった。
夢野久作・久生十蘭・小栗虫太郎と、異次元の作家を三人ならべてみると、いつでも虫太郎は「うしろ」にきた。十蘭の俗情にはそのうち愛想が尽きてしまったし、わたしのなかで持続していったのは夢久への興味のみだった。
ところがところが。
虫太郎論を書かねばならない。
だれも書いていないではないか。
第一作「完全犯罪」から未完の中絶作「悪霊」まで、完成しなかった虫太郎宇宙の可能性について、非常に多くの白紙の課題がある。「悪霊」がもし最後まで書かれていたら……。
戦後日本の探偵小説の方向は一変していたかもしれないのだ。これは、たんに横溝正史は『蝶々殺人事件』を書かなかったかもしれないというゴシップについ ていうのではない。虫太郎が社会主義探偵小説と銘打った「悪霊」は、必然的に埴谷雄高の『死霊』と奇怪な共鳴を果たし、探偵小説の亜空間を力ずくで押しひ ろげていったと思えるのだ。
などなどのことを、わたしは看過してきたようだ。
今からでも間に合う。書かねばならない。
夢野久作論なら書かれ過ぎていて、正直なところ、自分の出番がまわってくるとも思えない。ところが虫太郎論ときてはごく少ないし。これは「指定席」ではないですか。
やはり一冊分かな。
未完の「悪霊」のテーマについて(だけ)であれば、いま連載している『夜の放浪者』のエピローグにでも注釈的に置けるだろう。その程度の位置づけで済みそうだ。しかしそれで充分かというと――もちろんもちろん否である。
黒死館があるからな。活字の「黒死病」にも似た、異形の、畸形の大伽藍。その反世界性について半信半疑のところがあったが……。だが解明されねばならないのだ。やはり一冊分かな。
そんな時間がどこにある?
また横道に逸れることになる。困ったもんだな。生きているあいだに片づく仕事なのか。
ネットを少し覗くと、けっこう調査の行き届いたサイトがあった。これを利用させてもらえば図書館に通う時間は省略できそうだ、などとさもしいことを考え る。虫太郎本は、秘境モノを除けばだいたい揃っているようだ。桃源社版は惜しいことに手放してしまったけれど、後から買った文庫版はしっかり所持してい た。
てなこといって。
おい、ほんとうにやるのか。

画像は創元推理文庫から引用。
目の輝きがこの人物の内奥をよく映している。

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