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更新日記2003.10.15

更新日記2003.10.15

検索ページを作った。ファイルの多いHPになっているので、検索機能も必要だろう。活用してください。

サイードが死んだ。何か書かねば、と思うが、今は用意できない。パレスチナの状況を考えれば、まだまだ生きて発言してほしかった。『文化と帝国主義』は変わらずにわたしの教科書でありつづけるだろう。
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マイケル・スレイド『暗黒大陸の悪霊』を読んで考えこんでしまっている。
書評紹介用の二百字をひねり出せば、それで終わり、のはずだった。読むのはずいぶんと骨が折れたが。
それが収まりきらない。本質的に要約を拒絶している。無理に縮めれば、まったく見当外れになりかねないような。
一口にいって、このシリーズ、あまりに北米探偵小説的なのだ。といっても、何の説明にもならないけれど。
私見によれば、――過剰すぎるメッセージで破裂寸前のテキストを、固有に北米探偵小説と呼ぶ。典型的にはアメリカ人の書く物に発現している(その中で、 かろうじて定型ジャンル作品のかたちをなし、なおかつ日本語に翻訳され、比較的多くの読者に享受されたものを対象に論じたものが、『北米探偵小説論』だった)。

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カナダ人作家スレイドのシリーズがこのタイプに属することは、もっと早くに発見してしかるべきだった。第一作『グール』の、 常軌を逸したラヴクラフティアンぶりからでも、それは読み取れるはずだったが。それを阻んだのはスレイド作品が表面的に帯びる、あの強烈にして無比の下品 さ・節度のなさだったのだろう。惑わされたことは事実だ。下品な作風は嫌いではない。けれど、その底に流れる真摯な共苦の意識を見つけそこねた。『グー ル』はパンクでラウドなだけのヘヴィ・ロックだとしか感じなかったのだ。
この点、いつかしっかりと書き留めておいたほうがいい。読み直しの時間を取ることができれば、だが。
今は覚え書きのみ。
『暗黒大陸の悪霊』には、「白人と黒人の双生児」という観念が導入されている。
白黒の民族の血の混交にたいするゴシック的な恐怖は、フォークナーに代表されるように、アメリカ小説の根底を流れるテーマだった。混血がもたらすグロテスクな人間像は、『アブサロム! アブサロム!』という異様な傑作をはじめとするフォークナー世界を、たえまなく脅かし侵食しつづけていた。しかし、さしものフォークナーも、白人と黒人の双子までは描かなかった。

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さらには、スレイドは、その「双子」を本格ミステリおなじみのトリック・アイテムとして利用してくる。破格だ。とうてい正気とは思えない。
多民族混交への渇望にも似た関心は、この作品で頂点に達しているようでもある。
作品を肥大化させるペタンティズムは京極ミステリなどとも共通するが、スレイド作品は、民族学的アプローチがすべて西欧と有色人種、帝国主義と植民地という対立の参照項目として利用されるという顕著な傾向を帯びている。
人種差別へのこうした視点は、私見によれば、アメリカ人が書くものを根底から規定するある種の原罪意識だ。

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黒人女性作家として初の警察小説『エンジェル・シティ・ブルース』は、マーヴィン・ゲイ『イナーシティ・ブルース』からタイトルを借りたことに示されるように、九〇年代ロス暴動を描きながら、どことなく七〇年代プロテスト・ロックの生真面目さからあまり抜け出していない。批判ではないが。
一方、スレイドの『暗黒大陸の悪霊』は、スヌープ・ドギー・ドッグアイス・Tなど、いわゆるギャングスター・ラップに言 及することによって、黒人下層大衆のぎりぎりの叫びを汲み取ろうとしているように思える。「大声で叫びだしたくならないか。俺たちは生かされてるんじゃな い」とマーヴィンは唄いかけたが、その唄声はどこまでも甘くメロウだった。過去においてはなにがしかの意味はあったのだろうが、それはもう記念碑だ。今日 のラウドなメッセージそのものではない。
スヌープ・ドギー・ドッグのラップは大声の叫びでもメロウな唄声でもない。ただ、つぶやきのような単調さに、ひび割れた苦悶をいくらかは伝えてくる。
というようなことを……。
書きつづっていくときりがない。
この項つづく、だな。

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