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更新日記2003.04.01

更新日記2003.04.01

ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』にいたく感銘した。二百年前の小説とはいえ、描かれてある心理がなまなましく迫ってくる。作品の力もさりながら、死刑囚の手記に自然と感情移入してしまうとは妙なことだと気づく。だが……あまり立ち入って自己分析するべき事柄でもあるまい。

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ブッシュの戦争は、前段階的には「輝かしい勝利だった」とは、いえるだろう。或る作家はおよそ次のように表白している――。《この数ヵ月間、来る日も来る日もこの戦争の意味を考え書きつづけてきたものだから、いざ実際に始まってみると、衝撃や絶望というよりは戦闘を映すテレビ映像に奇妙な既視感のようなものさえ覚えた……》と。彼は「開戦」と同時にさる新聞に「戦争反対のメッセージ」を寄稿するよう依頼されていた。その原稿は、「開戦」の二日後、活字になっている。見込みで依頼された予定原稿を、寄稿者が事の起こる前にあらかじめそれを書き上げておく、という事態は珍しくはないだろう。彼もまた避けられそうもない「開戦」に歯噛みしつつも、アメリカの空爆が始まるよりも以前に、それに対する抗議の一文をしたためていたのかもしれない。奇妙な倒立がここにある。 わたしはべつだんこの作家を非難しているのではない。事前に書くことが道徳的に許せないというわけでもない。
ある種の気分についていっているのだ。ここ数ヵ月、忌まわしい戦争の影に脅え切歯しながらも、われわれは共通の予定調和の世界にとりこまれていったのではないか。理不尽な侵略を正当化する手段があるとすれば、それを正しいと主張する宣伝を数限りなく上げつづけることだろう。それこそ現代最強の帝国が前段階的に、周到に、グローバルな規模で行なってきた作戦だ。「世界の無法者に懲罰を下せ」、という感情がもともと広範にあったとはとても思えない。しかし、ただちに戦争行動をという待望は、当初の主戦論者のみならず次第に厭戦・反戦論者をも包みこんでいったようでもある。それは、「戦争がもし避けられないのなら」――いっそのこと早く開戦してもらいたいという気分として蔓延したのかもしれない。あまりにも長い「猶予期間」がおかれていた。冷戦期における「世界最終戦争」を前にしたかのような膠着とは明らかにちがう。このボタンが押されても惨禍は局地的なものにすぎない、と人びとは眺めていられる余裕があった。
大統領の品格はどうあれ、ブッシュのシステムを動かしているのは、民主主義社会の運用に長けた、それなりに優秀なテクノクラート集団だ。彼らの射程にあるのは、世論を動かす広報戦略こそが帝国の命運を左右するという現実である。ある意味では、宣伝戦こそがリアルな戦争なのだ。現実の戦闘はハリウッド映画のような「付録」ですらある、という感情が大衆に生まれてくることも何ら不思議ではない。アメリカは、戦争が避けられないという偽りの現実感だけではなく、「ブッシュよ、どうせやるなら、早くサダムを叩いてしまえ」という待望感すら芽生えてくるところまで、「開戦」を引き延ばしたのだといえよう。前段階のすべてを費やして、略奪侵略行動を国際正義の代行であると、真実を虚偽にすり替えて歪曲することまではできなかったにせよ、もはや「疑いえない現実」としての戦争を既成事実化することには充分に成功した。それが、戦争開始までの準備期間における情報戦の中味だった。最強の帝国は情報戦争においても軽々と勝ちを征する――という結果は、当然とはいっても恐ろしいものだ。 反戦メッセージをジャーナリズムから期待される作家が陥った奇妙な既視感を問題にしてみた。「開戦」以前にその蛮行について抗議文を用意するという行動の倒立。彼がその疑いもない誠実さにもかかわらず、己れの文筆活動がアメリカの情報戦略の一環に組みこまれているかのように感じるとしても、その直観は間違ってはいまい。反戦論者の気分をも蝕むたぐいの「戦争待望」を蔓延させた点においてなら、アメリカの前段階的情報戦は「勝利」をおさめたといえるのだ。
しかし――。
戦争は始まってしまった。
テレビ中継WARが。
湾岸戦争のようなハイテク兵器によるスペクタクル・ショーの華やかさもなく。また、「侵略者フセインを駆逐せよ」といった「大義」すらもなく。
前段階的情報戦が「勝利」したとしても、他ならぬその勝利の要因がすべて、戦闘の敗北につながっていくだろう。大国による圧倒的な物量の侵略と主権侵害と蹂躙。進行していること、起こっていることの素朴な意味は、どんな情報操作によってもごまかしえない事実だ。

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