更新日記2003.06.01
このところ本を読んでいるよりも、あっちからこっちへと移動している時間のほうが多い。去年の夏もそういうことをやっていた。まるで引っ越し屋のようだ。といって身体はあまり無理がきかないし。
いったい人は、一生のうちどれだけの時間を本を読むことでなく、あっちからこっちへと移動することについやすのだろうか。ベンヤミン的な不吉な問いだ。本というものは、他の時には無視できるにしても、運ぶときにその量の膨大さに苛立たされる物体だ。ダンボールが三十あってもほぼ一部屋を占拠してしまうけれど、その量でたかだか千冊くらいだろう。大きなダンボールを用意したら、かなり腰にきそうだから、いっぱいに詰め込むことはできない。みかん箱は運ぶのがラクでも、たいして入らないから面倒に感じる。
というわけで、スタートしなければならない仕事にも、まだかかれない。困った。
某誌の連載コラムで、筆者が書いた覚えのない文章が三行ほど増えているのを見つけ、びっくりした。意味内容にかかわるところではないけれど、あまりのことに唖然とした。送り仮名ひとつでも細かく確認をとってくる媒体もある。それが当然だとは思わないにしても、書き換えても当たり前といった処理をされては、こちらの立場がない。そういえば、今までそれほど気にしてチェックしていなかったことに気づく。知らないうちにこちらの間違いを正してもらうようなこともあったのかもしれない。けれど、文章に手を入れて、そのことについて何の報告もないというのはよくない。
ゲラを前もって送ってもらうように連絡しておく。ゲラのチェックは各媒体でほんとうにまちまちだ。こちらも自分の本ではないから、ついつい事前チェックなしでも、それを由としてしまう。その慣れがこんな事態を招いたのだろう。
それとメールの使い方も考えねばいけないことだ。こちらはメールを原稿をデータ送稿する便宜で使っている。というか、この手段を至便なツールとして以上に過信したくないと思っている。ところが編集者によっては、メールで原稿への疑問点を書いてくる人がいる。ゲラに書きこんでくるような疑問点をメールしてくるわけだ。ひどいのになると、メールで書き換えの要求をしてくる者もいる。編集者のクセかもしれないが、こちらとしては愉快ではない。メールも使いようだろう。たいていの場合、メールは複雑なコミュニケーションには役立たない。かえって紛糾してしまうことが多い。したがって返信メールは出さない。締め切りの催促ぐらいの単純な用途には便利でも、その程度に限定しておいたほうがいい。原稿の重要な改変にかかわることは、電話で直接に伝えるのが礼儀ではないだろうか。
とはいっても、言いにくいことはメールで済ますという使用法はかなり一般化していることだし。
評論集は『世界の果てのカレイドスコープ』というタイトルが内定した。来月刊行予定となる。版元は原書房。
早く本を片づけねば。
ブルーノ・シュルツを読むこと。
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