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更新日記2002.11.22

更新日記2002.11.22

リチャード・ライトのスペイン紀行『異教のスペイン』が新刊で出た。前から気になっている本。初訳である。書店で野間宏の戦中日記を手にとってぱらぱらとめくる。三万円では、やはり買うのにちゅうちょする。


森巣博姜尚中『ナショナリズムの克服』がえらく面白かった。本を読むのが商売なのにもかかわらず、いや、それ故にというべきか、このように一息に読んでなおかつ深く満足する本に行き当たるのは年に数回もない。不思議といえば、奇怪なことだ。ギャンブラー兼非国民作家「モリス」の実力を知らされ爽快であった。ところでこの本は「著者代送」となっていたので首をひねった。著者のお二人とは面識がない。推薦の辞を寄せている上野千鶴子、梁石日の両氏とは面識があるけれど、推薦者が献本をしてくれることはないだろう。会ったことのない人からの著者献本も少なくないにしても、まあ、ミステリ領域にほとんどかぎられている。だからこの種の本が著者から送られてくることには、特別の意味を感じてしまうのだ。もし森巣さんから送っていただいたのなら、この場を借りてお礼申しあげる。読了後の興奮も含めて。

更新日記のファイルなどをパソコンでごちょごちょいじっていたら妙な感慨にとらわれた。作家の日記が死後に公刊され第一級の研究資料とされることも多い。けれどもそうしたことは現在、急速に「過去のもの」になりつつあるようだ。過去のものというのは正確に忘れ去られるという意味ではないが、かなれそれに近いのかもしれない。作家のなかにはもちろん『断腸亭日乗』のように、日記において戯作を試みる例もある。しかしそれをリアルタイムで発信することまでは、いかに荷風散人でも考えつかなかっただろう。
いまインターネットで、ちょうどこの文章のように、作家であれシロートであれ、個人の日記をシンクロニシティの場に発信していくことが当たり前になっている。これはわたし好みの感覚でいえば、生前公開日記の試みのように思える。従来のように紙で字を書くという形式では、こうした発信は想像もされなかったろう。同じ好意でもデジタル・データとして打ちこむことによって、「日記」はまったく異なる次元に現象してしまう。ごくプライヴェートな「告白」のたぐいが、インターネットの宇宙のなかで無作為に「公共化」する。ここで日記に演技がはいるのは当然といっても、書かれる対象はやはり私事なのだから、この公共性と私性とは相容れないはずだが。
従来の考え方だと二元化する「私-公」がネットの日記においては、ある部分では一体化している。だからこのネット日記というジャンルは、作家にとっては死後発表されるであろう文献の前倒しの公開という意義を持つのではないか。じっさい、無料で配信されていたネット日記が有料の活字本にまとめられるというケースもあった。
作家は死んでも作品の生命は残る。若年の書簡や秘密の日記が発掘されることも、その作家の物理的な生命とは関係なしに起こりうる。しかしインターネットによる私性の公共化という現実を経験した現代の作家は果たして幸運なのだろうか。もしこれが、死後発掘されるだろう遺産を先倒しに食いつぶしていくことに他ならないとすれば、現代の作家は死後の名誉すらも担保にして現在を燃焼したがっているといえないだろうか。
これはそして、失速した日本的資本主義の現実に気味の悪いほど正確に対応した現象でもあろう。

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