更新日記2002.05.28
谷崎潤一郎の「今昔」という身辺のことをそのまま書いたエッセイを読むと、事実あったことを『細雪』のエピソードに使っていることがわかる。谷崎は私小説臭さのない作家だが、エッセイでは、ずいぶんと正直でありのままだと知った。『断腸亭日乗』に有名なように、日記に虚構を記す例もあり、それはそれで戯作者としての一つのあり方だろう。フィクションとコンフェッションの境目はどのあたりにあるのか。自分の文体はその境目のどこに潜りこめるのか、表層か奥深くか。このところ、ずっとそんなことを考えているのだけれど、これといった結論が出ない。結論が出ないまま谷崎などを読みかえしているので、日常がどうしようもなくたらたらと拡散していく。あまり自慢できることではないが、それも当然かもしれない。
谷崎の文章はあらためて読んでも、少しもありがたい名文には感じられない。息継ぎが長く、間伸びしていて、簡潔とはほど遠い。関西弁の幇間からちっとも中味はないのに耳ざわりだけはいい、達者な長話を聞かされているような気分になる。冗長とまではいわないが、どこかでこちらの生理的リズムをゆったりしたモードに合わせておかないと、途中でついていけなくなる。やはり現代作家ではなく、昭和前期に属する人なのだろう。
事実も虚構も綯い交ぜにエピソードに使うという、ごく当然の作法が『細雪』でもなされているわけだが、そのメカニズムを覗きたいだけで読むのは、不純なのだろう。
他に、沼野充義『亡命文学論』を読む。教えられるところと共感できない違和感が半々。一冊まとめて読んでも、この著者にたいするもともとのイメージは変わらなかった。亡命文学とはおよそ日本人にはなじまない概念だ。その項目の専任研究者というと、ついつい多大な期待をこめて読んでしまうのだが、それが満たされるところだけではない。論じる対象と筆者との距離、それが時どき測定不能になる部分も少なくなく、それに関しては当惑が残る。とはいえ半分は有益だった。
新しい本が出る。
一つ片づいてやっと次に進めそうだ。
更新は、連載の二回目。
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