更新日記2002.03.07
よく知られているように、エリザベス・キューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』のなかで、死をいくつかの段階に分けている。
一、否認と孤立。
二、怒り。
三、取り引き。
四、抑鬱。
五、受容。
六、希望。
この本によれば、人はたんに死ぬのではなく、ゆっくり死んでいくのだ。死は長いトンネルを抜けていった彼方にある。しかし決して未知の恐怖ではないというわけだ。
いずれにしても、われわれは個体として生きている以上、自己防衛のメカニズムがいつもはたらいている。死という事実〈デス〉も死ぬこと〈ダイイング〉も、まず、認めがたいというかたちで認知されるのだ。
死者の最後の言葉を集めた書は少なくない。
たとえばクロード・アヴリーヌの『人間最後の言葉』のように、うまくまとめられた本。
死の謎は生者にとって役に立つという立場だ。死が避けられない事実である以上、『死ぬ瞬間』にしてもそうだが、死の実用書が求められるのだろう。
東京西部の酒蔵を少し見学してきた。二月末は、製造業者によっては、そろそろ仕込みを終える時期にあたっている。日本酒造りは今でも機械化されない部分の多い製造業だ。23区内に一社と、あとは西多摩地区に何社か散らばっている。東京でも見学可能な酒蔵はいくつもある。ただし朝早くから始まる工程を間近に見せてもらうのはなかなか難しいようだ。部外者が蔵のなかに入れば、温度差が生じるし、細菌の活動にも影響する。
日本酒の製造工程には、どこか秘技的なところがあって、そこが好きだ。おかしな言い方になるが、日本文化の精髄がかたくなに残されている領域だといっても間違いないだろう。しかしこちらはもともと日本酒が体質に合わず、少し飲むだけで悪酔いする傾向がある。もったいないと思うけれど、ワインにしても同じで、醸造酒系が苦手だ。それにもっと肝心なこと。入院このかたずっと酒量制限の生活慣習になっている。というか、ほとんど飲んでいない。
そのためもあり、また他の理由もあって、日本酒製造の現場取材は、仕込み期の終わり近くまでずれこんでしまった。
まだこれにかかりきれるような状態ではなく、時期を逸してしまう公算もないではない。
以前から日本酒をあまり飲まなかったのは、醸造用アルコールの添加のせいでもある。ただたんにマゼモノみたいで厭だった。ところが味覚の点で比べてみると、純米酒よりも添加酒のほうがはるかに口あたりがまろやかなのだ。前から気づいてはいたが、今回、同じメーカーの純米酒と添加酒を同じ条件で味わってみて、いっそうはっきりわかった。醸造用アルコールを混ぜていない酒のほうが重いのだ。当たり前のこととはいえ、原料の米の重量がそのまま酒に移っている。
この件でも、他の継続中の仕事でも、進行状況はごくゆっくりしたペースだ。
こうしたペースに気分的にも慣れていくしかないのだが……。
今回の更新は、連載の十一回。
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