『ボブ・ディラン 瞬間〈とき〉の轍(わだち)2』
『ボブ・ディラン 瞬間〈とき〉の轍(わだち)2』ポール・ウィリアムズ著 菅野彰子訳 音楽之友社2600円
著者の考えは次の通り。
《 かれは基本的にはパフォーマーであり、かれにとって一枚のアルバムは進行中の芸術の過程のスナップ写真のようなものだ。運が良いときには、アルバムは最高の瞬間をつかまえている。そうでないときは、アルバムは機が熟する前や頂点をすぎたあとに録音される》
ディランはこのように人の鼻面を引きまわすミュージシャンだ。その都度、同じ唄を違うふうに唄うカメレオン。こうした歌い手にこうした本が捧げられるのはある意味では必然だと思った。ディラノロジー(ディラン学=ディラン呪い)の極致だ。
今では、ロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール(66年5月26日)の、 ディランをユダと罵る聴衆にむかって」”I Don’t Believe You. You’re A Liar”と罵りかえすディランをイントロにした「ライク・ア・ローリング・ストーン」も、簡単にCDで聴けてしまう。
《キャラコのドレスを着たスコーピオ・スフィンクス》、これは‘SARA’の一節だ。どうしても日本語にならない不条理な言葉。この本には’SARA’が録音された状況が克明に報告されてあり、ああそうだったのかと教えられた。この本が74年から始まっているように、わたしにとっても1974年は特別の年であり、おまけにそれは厄介にも、‘SARA’を含むアルバム『デザイア』及び『ビフォー・ザ・フラッド』を聴き狂っていた年としても記憶されている。
今でも‘SARA’をふいに聴くとふるえることがあるが、いずれにせよ、ふり捨てた過去の唄だ。この唄の別ヴァージョンがいくつあろうが、知ったことか。
この本の著者ばディランの千本をこえるコンサート・テープを克明に聴いてこの本を書いた。そのことの見当外れとか徒労とかはいうまい。この本もつまるところは、安手にはびこるサブジャンル・ヒーローに関する三流の英雄伝説だ。ディラノロジーのトートロジーは、ディラン学のディーテイルの豊富さとディラン呪いの深刻さとに反比例して貧しいものになる。切実に何かを訴えかけてくるが根本的に自己本位であり、率直に己れを語ってもたんに独善的なだけである。いつまでもディランを卒業できないことが、もし美しいことであったり誇らしいことであったりするなら、こうした本にも一片の真実が許されるのだろうが。
《ディラン特有のすばらしい発音の歪曲が起こる。かつてぼくたちは、この歪曲を単なるディランの発音の癖と考えてきた。しかし、現在では、ディランのこの発音の癖が基本の枠組みとなって、表現力豊かなことばの音の区切りかたを可能にしているのを知っている。顕微鏡を使うように細かく見て、この短いフレイズにも違う二種類の強調があることに注目してほしい》
思い出にはいくつかのヴァージョンがあるように、一つの唄を多様に聴くことができるというのは凡庸な真実だ。著者がいうには、ディランはいつからか、尊敬する故人のつくった唄を唄う人間の役を演じるという仕方で、ステージに立ち始めた。これが芸術家批判の論点ではなく却って讃歌であるところに、この本の決定的な本質がある。
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