時にはGreat Notion
このところパブリック・エナミーやブギ・ダウン・プロダクションズばかり聴いてい る。わたしの分身は勤め人であるので、毎朝こればかり聴いて満員電車に乗るのだ。 ラップの激しいところばかりを聴いて電車に乗って、時にはHANAKOなんぞ読んで新しい店を捜し、しかし大抵は翻訳ミステリを異様な速度で読み飛ばし、頭の片隅 では次に書く原稿のことなど考えている。全くこういうことばかりしていると、或る晴れた朝、突然に、ぼっかりと空洞があいて、何も聴こえず、何も見えない白々とし た闇の世界にゆらゆらと浮かんでいることに気付くことになる。そうするとすべてが 明日のない停滞した希望のない日常に引きずり降ろされてきて……要するにわたしの 暗黒のときがやってくる。
まあ、そういう時はまるで死んだように生きている他ないのだが、聴くものといえ ば、『ベスト・オブ・ミシシッピ・ジョン・ハート・プラス』がいい。これのプラ ス・ワンに『グッドナイト・アイリーン』が入っているからだ。これはもちろんレッ ドベリの歌なのだけれど、わたしのもっているレコード盤やCDには本人のオリジナ ルが収録されていないのだった。それ代用を聴く。代用にしろそこで
“Sometimes I take a great notion. To jump in the river and drown.”
という一節にくると胸がつまってしまうのだ。この簡単な歌詞、それでも『おやすみ、アイリーン』というシ ンプルなラヴ・ソングの中では転調している歌詞、それを聴いたときに感じる胸のつまり方も含めて、どう日本語に移し変えたらいいのかわからない。「グレート・ノー ション」は身近な言葉のようであり、しかし、日本語ではどう表現するのかわからな
い。
ケン・キージーの未訳の小説に“Sometimes a Great Notion” がある。たぶんレッドベリからとられたタイトルだ。これは『時にはすごい考えが』というタイトルに試訳され、通有している。まあ、そういういみには、違いないのだが……。「すごい考え」だろうな、やっぱり。妥当な訳語だとは思うのだが、それに慣れることができな い。死刑囚レッドベリはこの歌などで特赦され、レコードに残ることになった。その 「グレート・ノーション」の日本語化が、わかりすぎるようでいて、本当にわからない。
翻訳の世界 1992年11月
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